1Aにも一芸に秀でた選手がたくさんいたが、メジャーでプレーするには、三拍子揃っていないとダメという厳しい現実を目の当たりにした秋山は「メジャーリーガーになるつもりで頑張れば、日本でも1軍でそこそこにはやれるだろう」(自著「卒業」西日本新聞社)と決意を新たにした。

 また、チームメイトにのちのメジャーリーガーで、阪神でもプレーしたグレン・デービスという良きライバルがいたことも励みになった。

 2度目の渡米は83年5月末。留学先は同年から交流が始まったカリフォルニアリーグの1A、サンノゼ・ビーズだった。当時の2軍コーチが、ホームランバッターとしての育成を目指す球団首脳の考えに反し、秋山をアベレージヒッターに育てようと指導したことがきっかけだった。この問題の解決策として、根本陸夫管理部長は、秋山を米国に送り出し、3カ月後に帰国すると、今度はアリゾナの教育リーグに派遣といった具合に、徹底的に米国で“野球漬け”にした。

 グレンと再びチームメイトになった秋山は、ライバル意識を燃やし、3番打者としてリーグの首位打者争いを演じるなど急成長。メジャーのスカウトから二塁手としてオファーがあったという話も間接的に聞き、大きな自信をつけた。

 翌84年、1軍メンバーとして4度目の米国・メサの春季キャンプに「脇目も振らず無我夢中で挑んだ」秋山は、オープン戦で首位打者になり、開幕1軍スタメンを実現。85年から3年連続40本塁打以上を記録し、和製大砲として大きく花開いた。

 実質戦力外の“島流し”状態から、留学を機に大きく成長したのが、中日・山本昌だ。

 4年間で1軍登板わずか4試合、防御率19.29に終わった山本は88年2月、ベロビーチキャンプで1軍帯同を許されたが、そのまま野球交換留学生として残るよう告げられた。

 だが、留学生とは名ばかりで、ドジャースとの友好関係を保つためにチームの戦力にならない選手を置いていくのが“お約束”だった。当時の山本は左腕であることと体が大きいこと(186センチ)以外に特徴がなく、事実上の戦力外通告に目の前が真っ暗になったという。

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山本昌はその後“レジェンド”に