米国への野球留学が“転機”となった中日・山本昌
米国への野球留学が“転機”となった中日・山本昌
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 今では日本人メジャーリーガーも珍しくなくなったが、かつては1軍定着を目指す若手がメジャー傘下のマイナーチームでプレーする野球留学も盛んに行われていた。

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 その元祖的存在が、南海時代の村上雅則だ。

 入団時に鶴岡一人監督から米国への留学を約束されていた村上は、2年目を迎えた1964年のキャンプ中、ジャイアンツ傘下の1A、フレズノに派遣された。

 当初は6月中旬までの予定だったが、当時の南海は戦力が充実しており、帰国要請もないまま、村上は期限を過ぎても現地に残留。スクリューボールを武器にリリーフ左腕として49試合で11勝7敗、防御率1.78を記録し、首位を走るチームに貢献した。

 そして、9月からメジャーのベンチ枠が25人から40人に増えたことが、1Aから一気にメジャー昇格という幸運をもたらす。

 9月1日のメッツ戦の8回にアジア人として初のメジャーデビューをはたした村上は、同年、9試合に登板し、1勝1セーブ、防御率1.80の好成績を収めた。翌65年も登板45試合で4勝1敗8セーブ、防御率3.45と活躍し、“マッシー”の愛称も定着した。

 ジャイアンツは3年目以降も村上との契約を望み、保有権を主張する南海との二重契約問題に発展したが、最終的に村上は、「留学」という鶴岡監督との約束に義理立てする形で帰国している。

 野茂英雄がメジャーに挑戦した30年も前に、「修学旅行気分」で野球留学した投手がメジャー昇格をはたした快挙は、日本の野球がまだ米国に太刀打ちできない時代だったことを考えると、極めて画期的と言えるだろう。

 80~90年代に黄金時代を築いた西武も、野球留学を積極的に行っている。その中から主力に成長した選手も多く、代表的な一人が秋山幸二だ。

 81年にドラフト外で入団した秋山は、2年目にイースタンで本塁打王(13本塁打)を獲得した直後、アストロズ傘下の1A、アリゾナ・アストロズの教育リーグに参加し、最初の野球留学を体験する。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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秋山は“ライバル”の存在もあり成長