見城:おふたりは栄一、柴三郎と対面した経験はございますか。

北里:柴三郎が亡くなったのは31(昭和6)年。孫の私は翌32(昭和7)年生まれで、面識はありません。

見城:栄一が生まれたのは、柴三郎より13年早い1840(天保11)年。一方で没年は、奇しくも、二人とも1931年です。

渋沢:栄一のお葬式を覚えています。ここ西ケ原にあった自宅の門を出て青山葬儀所に向かう棺を、道いっぱいの人が見送ってくださった。学校関係のほかに、一般の方もいらした。新聞に葬送の時刻が載ったわけでもないのに、「すごいもんだな」と子ども心に驚き、不思議でした。

北里:すごいですね。

渋沢:あのころ、日本はテロの時代でした。財界人は、殺されるなど大変な目に遭った。栄一が清廉潔白だったとは言わないが、畳の上で、実際はベッドですが、平穏に死ぬことができた。葬儀は、その象徴でした。

見城:栄一は経済界、柴三郎は医学界と、活躍の場は異なりますが、実は共通項が多い。ともに幕末に生まれ、明治維新の動乱期を駆け抜けたふたりは、正義感あふれる若者でした。たとえば栄一は、尊王攘夷思想の影響を受けて、高崎城の乗っ取りや横浜の焼き討ちを企てます。

渋沢:1863(文久3)年ですね。実行していれば殺されていたでしょうが、運よく思いとどまった。新選組が暴れ回っていた京都に出た栄一は一橋家の徳川慶喜に仕え、その後は明治政府のもとで働きます。

 尊王派だった若者が、第一国立銀行の設立にまで携わる実業家になる。私はこの期間を、「奇跡の10年」と呼んでいます。

見城:柴三郎は、53(嘉永5)年に本県の阿蘇地方にある庄屋の家に生まれ、16歳で熊本藩の藩校・時習館で学びます。大政奉還を経て明治に入るも、熊本では、士族が新政府に反乱を起こす神風連の乱が起きるなど、まだまだ動乱の時代でした。柴三郎が進学した熊本医学校(現・熊本大医学部)でも「熊本藩が幕府に恭順していいのか」と激論が交わされていた。

北里:4男5女の長男ということもあり、「自分がしっかりして社会をなんとかしなければ」といった正義感が強かったのでしょう。 両親は、武士の世界に憧れる柴三郎に儒学を身につけさせようと、親戚の家に預けます。「縁側の雑巾掛け」を命じられた柴三郎がピカピカに磨き上げる逸話は、「光る縁側」として、熊本の道徳の教材にいまも載っております。

見城:医学校では、オランダ人医師マンスフェルトとの出会いがありました。日本の医学教育制度を確立した一人ですね。

北里:ええ、マンスフェルト先生は、3恩人のうちの1人目です。

 当初、本人は医学に興味がない。マンスフェルト先生に「医者になる気があるのか」と尋ねられても、「ここでオランダ語を学んで、軍人か政治家になり、国際的に活躍したい」と平然と答えていた。

 しかし、顕微鏡を覗くうちに微生物の世界に魅せられる。生意気にも、「医学、学ぶに足る」と医学への道を決意したわけです。

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