裕次郎が独立プロを作ることは、この五社協定を敵に回すことだった。日活もドル箱スターの独立を許すはずもない。裕次郎は、日活を拠点に映画製作をすることで上層部を説得。63年に石原プロモーションを設立。第1回作品として市川崑監督「太平洋ひとりぼっち」(63年)を製作した。
一方、黒澤明監督との作品で世界に知られた東宝の三船敏郎も、62年、三船プロダクションを設立していた。第1回作品は、三船が自らメガホンをとった「五十万人の遺産」(63年)だった。
石原プロモーションを設立してほどなく、裕次郎は、三船プロダクションと製作提携すべく、三船と水面下で打ち合わせを続けていた。やがて二人は、64(昭和39)年10月に「石原プロ・三船プロ 提携記者会見」を開き、二人の主演による岡本喜八監督のアクション大作「馬賊」の製作を発表。
ところが共同製作とはいえ「他社作品に自社のスターは出せない」と映画会社からのクレームがつき、さらに東宝と日活のどちらが配給するかが問題となり、企画は頓挫してしまう。
それでも裕次郎はあきらめず確固たる信念を抱いて、毎日新聞に連載された木本正次「黒部の太陽」の映画化を企画した。
裕次郎は、ハリウッド映画「グラン・プリ」(66年)の撮影でイタリアにいた三船に原作を送り、三船もすぐにプロジェクトへの参加を快諾。監督は日活の社会派・熊井啓と決まった。
裕次郎にとっても三船にとっても、ここから先が実際の黒四ダム建設のように難航を極めていく。日活社員である熊井監督起用のプロセスが問題視され、横やりが入ったのだ。
裕次郎たちにとって「五社協定」は、関電トンネルの「破砕帯」のようだった。突破しようとすればするほど立ちはだかる難関となっていた。
映画演劇陣総出演と言われた豪華キャスト実現には、こんな話がある。「最後に裕さんは、宇野重吉先生のところへ飛び込んだんです」とまき子夫人。「これが僕が使えるキャスト費です、と500万円を宇野先生に預けたんです。その時、裕さんが闘う男の“闘争的な眼”をしていた。『その裕次郎の眼で、僕のはらは決まったんだよ』と先生から伺いました」