宇野は劇団民芸や俳優座、新国劇の重鎮たちに声をかけ、滝沢修、辰巳柳太郎、そして東宝の志村喬、日活の二谷英明と、そうそうたるメンバーが集結。三船の妻を演じた高峰三枝子は、裕次郎の大ファンでノーギャラで出演したという。
しかし「五社協定」からの圧力は、クランクイン直前まで続く。ある日、まき子夫人が買い物から帰ると、裕次郎が背中を向けてうつむいている。脇には一升瓶。「身体が揺れているの。お酒を飲んで、という揺れ方ではないな、と思ったら、泣いていたんです。西陽が涙にあたって、まるで宝石のように落ちていた」。まき子夫人は、そこで初めて裕次郎の涙を見たという。
自分が育った映画界のために粉骨砕身しているときに、その映画界からの横やりに理不尽な思いをしていたのだ。しかし、裕次郎のこの映画への情熱が、関西電力をはじめとする経済界を動かし、状況を好転させた。
67(昭和42)年7月23日、「黒部の太陽」は無事クランクイン。その日は、まき子夫人の誕生日だった。総製作費は、当時としては破格の3億8900万円。
石原裕次郎と三船敏郎の2大スターが、そのキャリアと全精力を傾けて完成させた「黒部の太陽」は、まさに日本映画黄金時代の“映画のチカラ”にあふれた、文字通りの歴史的な大作である。今こそ若い世代にも、当時の映画人の底力を感じて欲しい。
※週刊朝日 週刊朝日 2018年4月13日号