工事のプロも危惧するこの現場へ、日活の製作担当者・小林正彦が呼ばれ、撮影を仕切ることになった。「コマサ」のニックネームで現場スタッフに親しまれた小林は、のちに石原プロ専務として会社を切り盛りしてゆくこととなる。

 やがて18時、11台のカメラが同時に回り始めた。もちろん一発撮りである。監督の「本番!」の声とともに水槽から水が放出され、石の破片が落とされた。しかし切羽はビクともしない。現場に緊張が走る。10秒ほど経ったとき、突然、轟音(ごうおん)とともに、420トンの水と石の破片が流れてきた。三船、裕次郎たちがたちまち濁流にのみ込まれる。

 裕次郎は「一瞬の出来事に、トンネルの中で撮影していた僕もスタッフも逃げる間もなかった」「正気に戻った僕は、スタッフの何人かを死なせたものと覚悟した」と回想している。

 多くが病院に運ばれたが、幸いにも死者が出ることはなかった。しかし一番深刻なのは裕次郎のケガ。撮影用ケーブルが身体に絡まり気絶、大量の水を飲んでしまった。結局、左大腿(だいたい)部打撲、右手親指骨折という重傷で、砕石にこすられて指先の指紋は全てなくなっていたという。

 様々なアクシデントを乗り越え「黒部の太陽」は完成した。68年に全国公開され、日本映画の興行記録を樹立する大ヒットを果たした。

 56年5月、兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作の映画化「太陽の季節」の端役でデビューを果たし、その公開前に「狂った果実」の主演に抜擢(ばってき)され、一躍スターとなった。

 しかし当の裕次郎は「俳優は男子一生の仕事ではない」と公言、自ら納得する映画作りへの夢を抱くようになる。

 当時、映画界では五社協定という暗黙の拘束があり、俳優はあくまでも映画各社の専属、自らの意思で他社出演はもちろん、独立することは許されなかった。「各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する。監督、俳優の貸し出しの特例も、この際廃止する」というもの。

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