●江戸時代・寺格百万石の大寺
増上寺の安国殿には、恵心僧都・源信作と伝わる阿弥陀如来像が祭られているが、これは徳川家康が陣中へも持ち入れていた持念仏でその後増上寺に奉納された仏さまである。家康が勝利を祈念していたことから、現在も「勝運」「災難除け」にご利益があるとして多くの祈願者が訪れている。黒本尊の異名を持つが、これは焚かれた香の煙で全身が黒くなってしまったことに由来するがそれほど多くの参拝を受けていることの証でもあろう。
江戸時代、関東十八檀林(学問所)の筆頭を務め、3000人を超える修行僧が常駐、25万坪の境内には48の子院、百を超える学寮を持つほどの隆盛を極めた増上寺も、明治維新の混乱期以降困窮を極めることになる。
●明治以降・苦難の復興の道へ
徳川家の菩提寺であることは、他に檀家を持たない寺を意味する。大政奉還後、増上寺は寛永寺とはまた別の苦難の道を歩むことになる。伊藤博文などが檀家となり復興の道を模索するも、再び昭和20(1945)年の空襲でほとんどの堂宇と多くの寺宝が焼失した。困窮の中で土地や焼失から免れたわずかな寺宝や建築物などが各方面へ移譲された。現在、東京タワーやホテルなどが建つ場所はすべて増上寺の元境内であるが、これらの売却によって堂宇の復興が可能になったと言ってもよいほど、増上寺の復興は遅れに遅れた。明治時代の神仏分離令により独立した安国殿(現在の芝・東照宮)の再建が終わったのは、平成23(2011)年のことである(それ以前は大殿の仮堂を利用していた)。
加えて、大門という地名の由縁である山門までの一般道にかかる「大門」の権利が、東京都から再び増上寺へ戻ったのが平成28(2016)年のこと。それでも台徳院霊廟惣門や御成門、二天門などは未だに増上寺の所有へ戻っているわけではない。
増上寺は、大変開かれたお寺としても知られている。アーティストのライブや現代的なイベントが境内で開催されていたり、人が集まりすぎて今は中断しているが年越しのカウントダウンイベントは海外からの観光客の注目を浴びていた。明るい境内にいると、歴史の重みと格式、そして近代化の間でもがいてきたお寺の苦労を忘れそうになる。大本山・増上寺は、そうやって今を築いているのである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)