黒本尊を祭る安国殿
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七夕祈願会
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100万人のキャンドルナイト@増上寺
100万人のキャンドルナイト@増上寺

 江戸の町を作った徳川家康も江戸城の基礎を築いた太田道灌も、風水を気にして神社仏閣を配置していたと言われている。上野・寛永寺は、江戸時代初期に創建されたお寺であるが、江戸城の鬼門に位置し徳川将軍のお墓があることでも知られている。それではその逆、裏鬼門に何があるかというと、徳川家の菩提寺である芝・増上寺が鎮座し同じく歴代将軍のお墓が残っている。

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●歴代将軍が眠るお寺

 増上寺の創建は9世紀とも室町時代(1393年)とも言われているが、いずれにせよ現在の麹町付近にあたる貝塚という場所にあった。徳川家康が江戸入府の際、当時の住職と対面、大変気に入られたことから徳川の菩提寺としての地位を得ることになる。やがて江戸城の拡張に伴い、現在の芝へと移転するのだがこの折に裏鬼門を守る役目を担うこととなった。

 家康を祭る東照宮(現在は独立して神社へ)のほか、2代・秀忠、6代・家宣、7代・家継、9代・家重、12代・家慶、14代・家茂らの荘厳な霊廟が作られていたが、昭和の空襲の際、これらの遺構のほとんどは灰燼と帰した。現在はわずかに残った石塔に合祀された形で将軍家墓所が維持されている。

●増上寺の刃傷沙汰

 増上寺は、度々歴史の表舞台へ登場するので時代劇などでもその名をよく聞く。徳川家の菩提寺だったことから特別の役職もあったのだから当然かもしれない。一番有名な話は、赤穂浪士が討ち入りすることとなった事件・浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城松の廊下で切りつけた理由の「増上寺の畳替えでの嫌がらせ」であろうか。実はこれに先立つこと21年前の 延宝8(1680)年6月24日、増上寺でも刃傷沙汰が起きている。こちらは4代将軍・家綱の77日法要で増上寺参詣門の警備を担当していた内藤忠勝が上役・永井尚長を刺殺した。この話を元に松本清張が「増上寺刃傷」という小説を書いているが、研究者たちの間で因果はさまざま語られている。興味深いのは、内藤忠勝が浅野内匠頭の血のつながった叔父であるということ。叔父の家が断絶させられたさまを見ていても、浅野内匠頭は自らの所業を止められなかったのである。

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増上寺の苦難とは…