長い「老後」で死の意味あいまいに 「宗教は無意味になった」宗教学者・島田裕巳 (2/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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長い「老後」で死の意味あいまいに 「宗教は無意味になった」宗教学者・島田裕巳

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島田裕巳(しまだ・ひろみ、63)/宗教学者。1953年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。日本女子大学教授などを歴任。主な著書に『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)など(撮影/宮本柊)

島田裕巳(しまだ・ひろみ、63)/宗教学者。1953年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。日本女子大学教授などを歴任。主な著書に『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)など(撮影/宮本柊)

●宗教はただのスポット

 家という重みがなくなり、ご先祖様の霊も感じられなくなった結果、どうなるか。その霊は「個人化」され、たとえ死によって肉体が消滅しても「自分」はどこかで生き続けるはずだという意識に収斂(しゅうれん)してきました。死んでも自分の人格は変わらないことを期待しているわけですから、これは仏教の輪廻(りんね)転生のように生まれ変わることとも違います。ご先祖様にも守護神にも悪霊にもならず、ただ浮遊するように「自分」は続いていく。極めて個人主義的な感覚で死をとらえるようになったと言えます。

 必然的に、宗教との付き合い方も個人的なものになります。家や宗教団体を媒介とはしないので、お寺や神社に定期的、継続的に行ったり、祈ったりはしない。病気や争いから解放されたいという「救い」を求めているわけではないので、新興宗教にも無関心です。しかし、個人としては、パワースポットと呼ばれる神社に行き、お寺で文化的な価値に触れたりということはする。宗教はただの「スポット」であり、それ以上の意味はないのです。

●死が遠くなりすぎた

 日本は、過去に何度も大きな災害に見舞われてきた歴史があります。そのため、日本人には「世の全てのものは移り変わり、いつまでも同じものはない」という無常観が根底にある。死が身近でいつ死ぬかわからないから、無常の世の中ではない「極楽浄土」に生まれ変わることを期待してきたのです。しかし、前述したように、人生に「老後」という段階ができたことにより、念仏をとなえて極楽浄土を期待するには、死が遠くなりすぎた。極楽浄土の意味がなくなってしまったのです。

 家からご先祖様が消え、お墓もなくなり、宗教が無意味になった今、日本人がたどりついたのは、生き続けることこそ価値があるという逆説的な死生観でした。だが、肉体が滅びる「死」は不可避です。老後から「死」までの30年間にわたって、いつか来る最期を考え続けなければならない。その期間を生き延びて、やっと死ねる。

 生きるのも、死ぬのも楽じゃない。本当に大変な時代になったのです。(構成/編集部・作田裕史)

AERA 2017年1月16日号


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