それを聞いて「わたし」はしばらく前の日本における学生運動の展開とその結末、内ゲバの悲惨を思い浮かべずにはいられない。そこに結論はない。結論を求めない記述こそが小説を運ぶ。「わたし」が帰国する時期は、民主化を求める市民に軍が発砲などして多数の犠牲者を出した1980年5月の「光州民主化運動」(「光州事件」とも呼ばれる)より前だ。市場や酒場を訪れ、ソウルとはまた違った「肌にまつわりつくような祝祭性」を感じ取る。

 下宿の主人、申尚(シンサン)ミンさんは若いころ俳句を作っていた。申さんが26歳のときまで、朝鮮は日本統治下にあり、日本語教育が強制されていた。高浜虚子の雑誌『ホトトギス』に投稿し、何度か掲載された。その還暦祝いに「わたし」は日本から取り寄せた『俳句歳時記』を贈り、知人に頼んで入手した、申さんの句が載っている『ホトトギス』の複写を贈る。申さんにとって「日本語とは何だったのだろう」と「わたし」は思う。こうしたエピソードも心に残る。

 夭折した映画監督、河吉鍾(ハキルジョン)とその映画『馬鹿たちの行進』『炳泰(ビョンテ)と英子(ヨンジャ)』を描く章は、映画研究を専門とする著者の文章が躍動する箇所で、強く引きこまれる。映画への情熱が人々を結びつける。

「わたしは歴史に手を触れたことになるのだろうか。いや、そうではない。歴史はもっと深奥に控えていて、誰もが絶望にうち沈んでいるときに、ゆっくりとその姿を現わすはずだ。ではわたしは何をしているのか」。傍観者ではない。しかし当事者とも違う。その立ち位置、その逡巡と視点が次なる「歴史」を生み出すだろう。感動的な作品だ。

週刊朝日  2022年3月18日号