詩人の蜂飼耳さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『戒厳』(四方田犬彦著、講談社 2200円・税込み)の書評を送る。

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 多岐にわたる研究と執筆を精力的に続ける四方田犬彦が見せる顔の一つは、詩の書き手としての顔だ。昨秋刊行の詩集『離火』(港の人)に「ソウル1979年」と題された詩がある。着地点の見出せない感情が、市場や人々の点景の中にあぶり出される。

 半自伝的小説『戒厳』のかたわらにこの詩集をおいて読む。すると、著者の思いと歴史、過去と現在が複合的に屹立して見える。それが特別な読書の体験をもたらすことを、まず記しておきたい。

『戒厳』のタイトルは、朴正熙(パクチョンヒ)大統領暗殺直後、1979年10月27日に発令された非常戒厳令にもとづく。年が明けてほどなく主人公「わたし」は日本に帰国する。この小説は、それまでの韓国での1年ほどの日々を中心に描かれている。そもそも、大学卒業後、なぜ韓国に行くことになったのか、というところから始まる。韓国の大学で日本語教師として働く話が舞いこみ、急に決まったのだった。同級生たちは首をかしげる。どうして韓国に、と。

 当時の韓国は、軍事クーデターで政権を掌握した朴正熙による独裁政治が続き、「わたし」の同級生たちはまず行きたがらない国だった。「わたし」も例外ではない。だが、現地で暮らすうちに印象は変化する。日本との違いや、日本との間に横たわる複雑な歴史。衣食住、出版や音楽をめぐる状況。一つ一つの出来事が先入観を覆す。韓国社会に入らなければわからないこと、政治についての考え方、地域の差異。「わたし」の目に、なにもかもが新鮮に映る。

 徴兵制が学生たちに重くのしかかる。3年の兵役を終えて復学した学生たちは、教師の「わたし」より年上。その一人、許憲(ホホン)の出身地は全羅南道(チョルラナムド)の光州(クワンジュ)だが、「韓国のなかでもっとも韓国的な場所」と故郷を紹介する。1929年の抗日運動の際、許憲の母校、光州第一高等学校の学生たちはデモの中心となった。「歴史の先頭を切るのは、つねに知識人である学生なのです」と許憲はいう。

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