
【生命科学対談】SF作家・瀬名秀明×東北大教授・大隅典子 ヒトゲノム解読完了宣言から20年(後編)
東北大学副学長で、脳や神経の発生を研究する大隅典子教授と、『パラサイト・イヴ』などのSF小説をはじめ、科学を題材に執筆する作家の瀬名秀明さん
国際プロジェクト「ヒトゲノム計画」が、人間のゲノム(全遺伝情報)の解読完了を宣言したのは2003年のこと。それから20年、テクノロジーの進化とともに生命科学を取り巻く環境は大きく変化しました。東北大学副学長で、脳や神経の発生を研究する大隅典子教授と、『パラサイト・イヴ』などのSF小説をはじめ、科学を題材に執筆する作家の瀬名秀明さんが、その変遷と課題について語り合いました。前編に続き、後編をお届けします。
※中高生向けに生命科学の魅力を伝える書籍『マンガdeひもとく生命科学のいま ドッキン!いのちの不思議調査隊』(朝日新聞出版)に収録された特別対談より一部抜粋。
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AIにビッグデータ。最新テクノロジーをどう活用する?
瀬名 AIはさまざまな分野で応用されていますよね。でも残念ながら、医療現場での活用がうまくいっているとは言い難い現状です。例えば、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)対策として、台湾ではオードリー・タンさん(台湾のデジタル担当相を務める天才エンジニア)が感染追跡アプリを作って感染抑制に貢献しましたが、日本のCOCOAはあまりうまく機能しませんでした。保健所が使っているハーシス(HER-SYS、感染者情報を把握・管理するシステム)や、医療機関のデータベースも仕組みとしてはあるけれど、横の連携がなされておらず有効活用できていません。
理由の一つは、日本人の多くが、医療分野でビッグデータを扱うことに抵抗を感じること。コンピュータに病気の詳細や生活を管理されるのは「監視されているようで気味が悪い」と感じる人がまだ多いんですね。先ほどのコホート研究も、本当は全国民でやったほうがいいと思うんですよ。そうしたら土地や国による違いなど、いろいろなことがわかってきますから。こうしたことを一部の熱心な研究者だけで行うのは難しい。今後はますますビッグデータの活用が重要になってきますから、これから社会に出ていくデジタルネイティブ世代には、有効活用できる手段を考えてほしいなと思います。
大隅 近年の生命科学の世界に強烈なインパクトを与えたものとしては、先ほどの次世代シークエンサーのほか、PCR(ポリメラーゼ・チェーン・リアクション)とCRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)、iPS細胞が挙げられます。
PCRは、コロナで一般の人も知るところになりましたが、そのために開発されたものではもちろんありません。生物や医学をはじめとするさまざまな分野で、遺伝子解析の基礎となっている技術で、開発者のキャリー・マリス博士は1993年にノーベル化学賞を受賞しています。わずかなDNAを短期間で大量に増幅させることができるそのテクニックによって、病気の迅速診断が可能となったり、遺伝子の異常を発見できたり、農作物へ応用したりなど、生命科学は一変しました。
東北大学副学長で、脳や神経の発生を研究する大隅典子教授と、『パラサイト・イヴ』などのSF小説をはじめ、科学を題材に執筆する作家の瀬名秀明さん
CRISPR-Cas9は、画期的なゲノム編集の技術で、エマニュエル・シャルパンティエ博士とジェニファー・ダウドナ博士が2020年にノーベル化学賞を受賞しました。ゲノム編集の第三世代に当たるCRISPR-Cas9の技術は、それまでと比べ物にならないくらい正確なものでした。狙った位置で、望みの改編を高確率で行えるのです。この技術によってゲノム編集に関する研究が一気に加速し、医療や生命科学だけでなく、農業、畜産業、漁業をはじめ、化学産業など広い範囲に大きな社会的なインパクトを与えています。
iPS細胞は、人工的に作られた多能性の幹細胞のことです。京都大学の山中伸弥教授のチームが作製に成功し、2012年、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。iPS細胞は、一般の方には、臓器をカスタムメイドできるという応用面で知られていますが、生命科学界で最も有用なのは、成熟した細胞を多能性を持つ状態に初期化するという基礎的なメカニズムの部分なんです。実際、臓器をカスタムメイドしようとすると、iPS細胞では手間がかかりすぎるので、ES細胞などを使ったほうが効率がいいのです。iPS細胞はむしろ、臓器細胞に分化させて薬の効能をチェックするとか、ミニ脳を作るとか、研究材料として使える点がものすごいインパクトなのです。例えば、自閉スペクトラム症の人の脳は、そうではない人とどう違うのかという研究をする場合、胎児の脳そのものを扱うのは倫理的に難しいですよね。そこで自閉症の方からいただいた細胞を初期化してiPS細胞にして、ミニ脳を培養皿の中で作って比べてみるとか。そんなことも可能になるんです。ちなみに、Pax6は自閉症にも影響を及ぼしているんですよ。
夢物語が現実になるとき、浮き彫りになる課題
瀬名 再生医療やゲノム編集しかり、そうしたことができるようになってくると、湧き上がってくるのが生命の本質への問いですよね。なぜ人は生まれ、死ぬのか。なぜ老いたり、病気になったりするのか。不老不死は可能なのか。人間が遥か昔から追い求めていた永遠のテーマです。荒唐無稽な夢物語だと思っていたことに、なんとなく近づきつつある感触がある。今の時代の生命科学には、そんなおもしろさがあります。
大隅 テクノロジーの発達によって、その哲学的な問いに、生命科学、あるいは一部の脳科学がアプローチすることが可能となってきている実感がありますね。だからこそ、科学者が倫理観を持って研究に取り組むことの重要性が増していると思います。一般の方に向けての伝え方も配慮が必要ですよね。
瀬名 僕は科学を題材にしたSFやホラー小説を書いているわけだけど、めざしているのは、何年経ってもテーマがおもしろいと思われるまま残る小説なんです。例えばiPS細胞で臓器を作ることができなかった時代に、「作れた!」という話を書いたら、そのときは「へえ~」と思うかもしれないけれど、10年後にはおもしろくもなんともないでしょう。科学ってそういう表面的なものではないですよね。謎はもっと深いところにあって。例えば再生医療が普及したとき、身体を治すだけではなく、エンハンスメント(身体などの機能を向上させること)の領域に飛び込むか否かとか、難病が当たり前に治せる時代が来たら、今を知らない子どもたちとどんなギャップが起こるかとか。そういうことまで考えていくと問題はすごく大きくて深いわけです。
大隅 カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や『クララとお日さま』の世界ですよね。病気の人に臓器を提供するために人工的に作られたクローン人間の話や、遺伝子操作によって知性の「向上処置」を行う社会で、人間そっくりのAIロボットを通して生きる意味を問う話。その社会では当たり前となっていることだけれど、その裏にはさまざまな問題や闇がある。科学者が研究を行う際には、ELSI(エルシー、Ethical,Legal and Social Issuesの略)、つまり、倫理的、法的、社会的課題についても、より慎重に考えていかなければいけない時代になってきていると思います。
【プロフィール】
東北大学副学長(広報・ダイバーシティ担当)および附属図書館長
東北大学大学院・医学系研究科・ニューログローバルコアセンター長
発生発達神経科学分野 教授
大隅 典子 さん
1960 年、神奈川県生まれ。東京医科歯科大学大学院・歯学研究科・博士課程修了。歯学博士。歯科医師免許取得。国立精神・神経センター・神経研究所室長を経て、1998 年から東北大学大学院医学系研究科・教授に就任。専門は発生生物学、分子神経科学。著書に『脳からみた自閉症 「障害」と「個性」のあいだ』(講談社ブルーバックス)、『脳の誕生 発生・発達・進化の謎を解く』(ちくま新書)など。
作家
瀬名 秀明 さん
1968 年、静岡県生まれ。東北大学大学院薬学研究科博士課程修了。薬学博士。1995 年、大学院在学中に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞を受賞しデビュー。SF 小説をはじめ、ロボット学や生命科学など科学をテーマにした著作を多数執筆。1998年、『BRAIN VALLEY』で日本SF 大賞を受賞。2006 年より3 年間、東北大学工学部機械系特任教授を務めた。