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パリコレ経験者「ダイヤモンドの原石のよう」  障害がある人とともに目指す「プロモデル」の新境地
パリコレ経験者「ダイヤモンドの原石のよう」 障害がある人とともに目指す「プロモデル」の新境地 モデルの岩下絢音(あやね)さん(25)。モデルを始めて生活様式が変わったという(撮影/写真映像部・和仁貢介)  障がいのある人たちが、プロのモデルをめざして日々努力をしている。パリ・コレクションを経験した元モデルの高木真理子さん(61)が代表を務める、グローバル・モデル・ソサイエティー(GMS)は、障がいがある人たちが所属するモデル事務所だ。 *   *   * 人と交流し、笑顔が増えた  背筋をまっすぐに伸ばし、ほほえみながら振りむく。装いとたたずまいにはモデルならではの華やかさが漂っていた。 「ファッションやメイクを考えるのが楽しいです」  しっかりとした口調で話すのは、岩下絢音(あやね)さん(25)だ。外見でわかりにくく「見えない障がい」と呼ばれる、知的障がいがある。モデルの活動を始めてから、生活様式が大きく変わった。  もとは家にこもりがちだった。母親は以前との違いについてこう話す。 「引っ込み思案で、人形を持ち歩いて話しかけていることもありました。今は撮影やレッスンに取り組んで、人と交流するようになり、笑顔が増えました」 グローバル・モデル・ソサイエティー(GMS)代表の高木真理子さん(撮影/写真映像部・和仁貢介) 創作活動の幅広げたい  健康のためにウォーキングレッスンを受けたのをきっかけに、2022年からGMSに所属し、ファッションモデルとしての活動を始めた。注目されたりするのが楽しいと感じるようになった。撮影のたび、髪形や服装を変え、リクエストに応じてポーズをとる。  あいさつやコミュニケーションもモデルの活動に合わせて見直してきた。 「つい、好きなことをたくさん話してしまう」(絢音さん)ため、「何をどれだけ話すか」について、母親に相談することもある。  ファッションやメイクを研究し、歌やダンスのレッスンも受け、演劇の舞台も経験した。布に染料で色をつけ、糊付けやコテ当てをしながら造形するアートフラワーでアクセサリーも制作する。  モデルに加え、多様な表現や創作活動の幅を広げて、将来はアーティストとして活動するのが目標だ。 障がい者のための「モデル枠」ではなく 「障がい者のための特別なモデル枠ではなく、障がい者が健常者と同じようにモデルの職業を選べる社会をめざしたい」  こう話すのは、障がい者を集めたモデル事務所、グローバル・モデル・ソサエティー(GMS)代表の高木真理子さん(61)だ。  パリコレの出場経験もある元ファッションモデルの高木さんは、一般の人向けのウォーキング教室を主宰してきた。「知的障がいがある子どもたちに指導してほしい」と頼まれたことをきっかけに、親子で参加できる知的障がい者向けの教室を開催している。 モデルとしてレッスンに励む(撮影/写真映像部・和仁貢介) ふつうに接し、率直に伝える  懸命に歩き方を学ぼうとする障がいのある子どもたちと接し、親たちの悩みを聞くうちに、高木さんは疑問を持つようになった。 「障がいがあるからできないと、本人もまわりも決めつけている。障がい者にどう接していいのかわからないから、はれものにさわるような対応が多いのではないか」  高木さんは、障がい者を持つ子どもにも「ふつうに」接し、気が付いたことは率直に伝えている。知的障がい者が社会人としてTPOに合わせたふるまいやコミュニケーションができなければ、目をつぶることなく、時間をかけて教えている。 「箸やフォークが使えるのに手づかみで食べる子もいました。教えたら、しっかりできるようになりました」 ほほえむ岩下さん。所作の一つ一つも美しい(撮影/写真映像部・和仁貢介) モデルの素質をみたうえで  障がいがある子どもたちが成長する姿は「ダイヤモンドの原石のようだった」(高木さん)。GMSを22年に創設した。知的障がい、ダウン症、遺伝性疾患、身体障がいなどさまざまな障がいのあるモデルが所属している。 「健常者と同様に、障がい者もモデルになれる人の数は限られている」と高木さんは説明する。GMSには障がいがある人から「どうしたらモデルになれるのか」と数多くの問い合わせがある。モデルとしての素質をみたうえで、本人の努力や家族の協力も必要になるため、実際に可能性に向けて挑戦できるのは1~2割だ。  親の協力も大切だ。テーブルマナーや身だしなみを「日常生活から意識するように」する。鏡をよく見て、ヒールを履き、化粧をする。白い服を着て食べ物をこぼさないようにする、良質なものを身に着けるといった「見られている」存在であることを認識する。自分をアピールし、気持ちを変えるファッションの力をいかす。 「撮影を通して主役としての場を持つことで、個性が磨かれ輝きが増していった」(高木さん)  口角を上げるトレーニングや歩き方など、必要に応じてワークショップを開くことはあるが、モデルになるためのレッスンは常設していない。個人がそれぞれトレーニングをしている。 明るいまなざしが印象的な清野優里さん(撮影/写真映像部・和仁貢介) 「好き」「やってみたい」  大きな瞳を輝かせ、人なつっこい笑みを浮かべるモデルの清野優里さん(31)。染色体異常のひとつで小児慢性特定疾病に指定されている4pマイナス症候群がある。視力が弱い、成長障がいがある、精神や言語の発達が遅れるといった特徴があり、5万人に一人といわれる障がいだ。  以前の優里さんは「暑さや寒さに弱く、体調管理のために家から出ないことも多かった」と母親は話す。高木さんのウォーキングレッスンを受けるようになって数年間が経ち、体幹が強化されて歩き方や歩幅が広くなり、長い時間歩けるようになった。  モデルを始めたきっかけは、本人が興味を示したことだった。自分から言葉を発することはなくても、「好き」「やってみたい」と母親に意思を伝えてきた。撮影の場でも、楽しそうにいきいきとしている。外出が増え、体が丈夫になった。  もとから「明るく、緊張しない」(母親)という優里さんの強みが、舞台の演技でも発揮された。24年5月に日本舞踊家の月妃女さんが主宰する演劇『台湾に命を捧げた八田與一の半生』に子ども役の一人として出演し、物怖じせずに喜びや悲しみを豊かな情感で表現した。  今後はミュージカルに挑戦するため、歌のレッスンにも励んでいる。 清野優里さん(撮影/写真映像部・和仁貢介) ありのままの姿で舞台に  障がいがある人がモデルとして活動する機会は広がりつつある。 「時代とともに、より多様性、個性が認められるようになっている」と、高木さんは説明する。モデルはファッションや商品のよさをアピールする役割で、人としての個性を前面に出すことが求められているわけではない。しかし、時代とともにモデル像は多様化している。 「私がモデルをしていた1980年代は歩き方の美しさが求められ、マネキンのような立ち位置で、笑うことさえ許されなかった。90年代から笑ってもよくなり、今は歯に矯正器具がついていてもいい、ありのままの姿で舞台に立てるようになった」(高木さん)  欧米では障がい者やトランスジェンダーなど性的マイノリティーのモデルもプロとして活躍している。日本ではまだ「障がい者としての枠組み」での起用はあっても、健常者と同じ立ち位置でモデルをめざすのは難しい状況だ。 「障がい者を採用してお金もうけをしているのかと批判が来たこともある。福祉の役割は大切だけれど、障がい者は『何かをしてあげる』だけの対象ではない。モデルをしたい人がいるならば、仕事として収入を得られる環境にしたい」(高木さん) (ライター・斉藤真紀子)
【中山美穂さん亡くなる】「精神的には、昔のほうが大人だった」デビュー35周年で語っていた50歳の心境【生前インタビュー】
【中山美穂さん亡くなる】「精神的には、昔のほうが大人だった」デビュー35周年で語っていた50歳の心境【生前インタビュー】 中山美穂(なかやま・みほ)/1970年生まれ。東京都出身。85年、ドラマ・CDデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。2016年には「魔術」で初舞台。現在、高田漣プロデュースによる約20年ぶりのアルバム「Neuf Neuf」が発売中。20年3月1日には中野サンプラザで、3月7日にはLINE CUBE SHIBUYAでコンサートを開催。 [撮影/片山菜緒子(写真部)ヘアメイク/石田絵里子 スタイリスト/高木かなえ 衣装協力/ブチェラッティ(和光)] 中山美穂 [撮影/片山菜緒子(写真部)ヘアメイク/石田絵里子 スタイリスト/高木かなえ 衣装協力/ブチェラッティ(和光)] 俳優の中山美穂さんが6日、都内の自宅で亡くなった。54歳だった。中山さんは同日に予定していた大阪公演を体調不良のため中止すると発表していた。2020年に週刊朝日でインタビュー。デビュー35周年という節目で、演じること、歌うことについて語っていた。中山さんを偲び、週刊朝日2020年1月3-10日合併号の記事を配信する。(年齢、肩書等は当時) *  *  *  気になる人物の1週間に着目する「この人の1週間」。2020年でデビュー35周年。女優として精力的に活動しながら、歌手としての活動も再開させた。演じる時は、求められることに全力で応え、音楽では、自分自身のやりたいことにこだわりバランスを取る。中山美穂さんのエネルギーの源泉とは?  2020年の3月1日で50歳になる。女優というのは、実年齢を積極的に言いたがらない印象があるが、彼女の話を聞いていると、どうも50歳になる自分を面白がっているように感じられる。20年にデビュー35周年を迎えるにあたり、約20年ぶりにアルバムをリリースするなど、女優以外の仕事が活発化してきたことも関係しているのかもしれない。 ただ無我夢中でした 「年齢を重ねてからのほうが、気持ちはシンプルに、スッキリしてきているかもしれないです。いろんなこだわりが削がれて、鎧を外していけているのかな……。一つ、何か豊かな部分を見つけられたら、その代わりに何かを手放していける。どんなつらいことがあっても、人前では自然に笑っていられるような、そんな芯の部分にあるブレない何かが太くなっているように思います。それは、人の3周分ぐらいの人生を経験しちゃった気になっているせいなのかも(笑)。いろんなことを乗り越えてきた私だから、何があってもきっと大丈夫、って思うんです」  最新アルバムのタイトルは、「Neuf Neuf」。“新しい”という意味のフランス語を「“ヌフヌフ”っていう語感が面白いなと思って(笑)」二つ重ねた。そこには、デビュー曲「C」のリカバーも収録されている。 「作詞が松本隆さん、作曲が筒美京平さんで、今歌っても、全く古さを感じなかった。当時は、背伸びした気分で歌っていたせいか、今のほうが、言葉が自分の中にスッと入ってくる、新曲のような感覚がありました。デビュー当時は、忙しいからといって、つらいと思ったこともなかったし、仕事に対する不安も不満もなかったです。ただただ無我夢中でした。だから、懐かしいという感覚すらないんです」  歌手と女優。二つの活動が、わずか15歳にして、順調に回りはじめた。ただ、女優として役を演じる時、役に対するアプローチの仕方は、今と30年前とでは随分違うと、中山さんは振り返る。 「今は、演じている時と、日常生活の切り替えが、きっちりできるようになったんですが、昔は、役のキャラクターを普段の生活にまで引きずっちゃうことがよくありました。とにかくその人物になり切ることが演じることだって思っていたのかもしれないですね。だから、役の衣装を借りてきて、普段もそれを着て過ごしたりとか(笑)。違うお仕事をしている時に、無意識のうちに役の言葉遣いが出てしまったこともしょっちゅうでした」 「美穂ちゃんって、パンクだよね」  20歳を過ぎる頃には、「無我夢中」時代よりも少し余裕ができて、自分を客観視できるようになったせいだろうか、与えられる役のイメージと、自分自身との乖離に、苦しむようになった。そんな時、彼女の芯の部分にある個性を解放できたのが音楽だった。シングル曲は、タイアップが多かったこともあり、日本を代表する作家陣からの提供を受けていたが、その一方、弱冠22歳で、セルフプロデュースしたアルバムをリリースしている。 「よく、私の音楽好きを知っている友達からは、『美穂ちゃんって、パンクだよね』って言われるんですが(笑)、音楽をやっている時は、無条件で解放される自分がいます。特にライブは、ひとりで大勢のお客さんを前に歌うわけですけど、こちらからは、みなさんの笑顔が見える。あの空気は、ライブでしか味わえないものなので……。私、音楽って、世界に、絶対になくちゃいけないものだと思うんです。『音楽に救われた』とか、そんなに大袈裟なものじゃなくても、川のせせらぎとか、風の音、鳥のさえずりや波の音、自然の中にある音も音楽の一部だと思うというか……。だから私は、音楽に関わることで、世界に必要不可欠な要素の一部になれることが喜びなんです」  アルバムをリリースできるようになった経緯もまた、彼女のいい意味での音楽への執着心やいい意味でのクレイジーさが、周囲を動かしたことが大きかった。 「音楽活動は、ずっと再開したいと思っていて、自分でバンドのメンバーを集めてリハーサルしたりしていたんです。でも、なかなか本格的に活動できる環境が整わなかった。そうこうしているうちに、18年の暮れぐらいかな。ミュージシャンの浜崎貴司さんが主催する『GACHI』っていう対バン形式のライブに『美穂ちゃん、やらない?』って誘っていただいて」  ただ、この「GACHI」は、弾き語りであることが対バンの条件だった。 「そこから約3カ月間、ギターを猛特訓して。あまりに大変で、もう、泣きながら練習していました(笑)。でもね、頑張った甲斐あって、めちゃくちゃいいライブになったんです。お客さんがみんな泣いているんですよ、久しぶりだから。私も、目を合わせたらもらい泣きしそうだから、なるべくお客さんのことを見ないようにして。一曲一曲、精一杯、心を込めて歌うことができました」 常に自分とは別の人格  ライブには、所属レコード会社の役員が足を運んでいたこともあり、その後、すぐにアルバム制作の準備に取り掛かることになった。音楽活動が本格化する一方で、女優業は、次々に新境地と言える役柄に挑戦している。20年にWOWOWで放送される連続ドラマW「彼らを見ればわかること」では、離婚歴ありの人気レディコミ漫画家・内田百々子を演じている。再婚相手の会社経営者と一人息子との家庭を持つ百々子と、同じマンションに住む家族との交流の中で、現代の家族観が浮き彫りになっていく物語だ。 「私自身、普段から共感する部分を探して役を作っていくというより、役は、常に自分とは別の人格だと思っていて。台本を読んだ時点では、百々子に共感も反発もなかったです。ただ、大学時代から漫画を描き始めて、少し世間知らずな部分と、自分の信念のようなものが共存している、マイペースで強い人なのかなと思います」  役を引きずっていた時代とは打って変わって、今は、役は自分とは別人格だと割り切れるようになった。それは、20代の時に、音楽で自分を表現しながら、女優としては自分の殻を打ち破りたいと考えていた時期を通過したことも大きかった。 「20代前半は、“等身大で演じてください”と言われることが多くて、『等身大って何?』ってことに頭を悩ませていました。なぜか実年齢より若い設定のほうが多くて、だんだんやりづらくなるんじゃないか、いつまで実年齢より若い役を演じ続けられるのだろう、という不安もありましたし。昔はだから、インプットばかり欲していましたね。でも、20代半ばで、岩井俊二監督の『Love Letter』とか、竹中直人さんと夫婦役を演じた『東京日和』のような作品と出会えたことで、面白い仕事を一つひとつ丁寧にやっていけばいいんだと思うようになったんです。今は私を必要としてくださるのなら、どんな役でもお引き受けしたい。どんな現場でも飛び込みたい。3年前には舞台にも挑戦しましたし、ある意味、怖いものなしです(笑)」  そうやって今の自分を肯定しながら、「でも、精神的には、昔のほうが大人だったような気がします」とも。 自然に滲み出る何か 「物事を一つひとつ真面目に考えていたし、人の言うことにも素直に耳を傾けていたので、分別があることを“大人”というのならば、昔のほうが大人で、今はむしろ、“自由にやらせてもらっているなぁ”という感じです。かといって、何も考えてないわけじゃないですよ!(笑)ただ、物事に、必要以上にジタバタしなくなったんです」  人生の中で、経験としてインプットしたものが、滲み出ればそれでいい。女優として、今はそんな境地にいる。 「役を演じる上で、技術的な部分や熱量以外に、自然に滲み出る何かが、一番その人のオリジナルなんだと思う。だとしたら、年を重ねること、経験を積むことすべてがお芝居の肥やしになる。80歳ぐらいのおばあちゃんって、陽だまりの中で座っているだけでも、何かが見えちゃうじゃないですか。私もそういう豊かさが欲しいんです。年齢を重ねて、ちゃんと自分の“味”を出していきたい」  実は、中山さんがこっそり狙っている“味”こそが、ユーモアなんだそう。 「『彼らを見ればわかること』もそうですが、群像劇って、登場人物みんなが一生懸命になればなるほど、はたから見たら滑稽だったりするじゃないですか(笑)。お芝居だけじゃなく、私自身も、年齢を重ねながら、いつかそういう存在になれたらと思います」 THIS WEEK 12月3日(火) 終日ドラマ撮影。帰宅し玄関のドアを開けると2匹の猫がお出迎え。 12月4日(水) FNS歌謡祭に出演。竹内まりや作詞作曲の「色・ホワイトブレンド」を、最新アルバムのプロデューサー高田漣のアレンジで。後半には新曲「君のこと」も披露した。 12月5日(木) NHK BS「The Covers, Fes. 2019」公開収録。98年のコンサート以来のNHKホールでのパフォーマンス。FLYING KIDS浜崎貴司さんとのスペシャルコラボレーションも披露した。 12月6日(金) 終日ドラマ撮影。 12月7日(土) ミーティングと諸々の準備。 12月8日(日) 気のおけない友人と少人数でホームパーティー。最近は、タイ料理でもてなすことが多い。 12月9日(月) ドラマの撮影後、22時から、生放送のオールナイトニッポンでパーソナリティーを務めた。 (菊地陽子、構成/長沢明) ※週刊朝日  2020年1月3‐10日合併号
中尾ミエ「健康とチャレンジが人生を楽しくする」50歳になるまで泳げず…世界マスターズ水泳で銀メダル
中尾ミエ「健康とチャレンジが人生を楽しくする」50歳になるまで泳げず…世界マスターズ水泳で銀メダル   中尾ミエさん。78歳(撮影/和仁貢介)  デビュー曲「可愛いベイビー」の大ヒットが16歳。60年以上の芸能生活を経た今も変わることなくテレビや舞台で活躍を続ける中尾ミエさん。最近、精神科医の和田秀樹さんとの対談をまとめた著書『60代から女は好き勝手くらいがちょうどいい』(宝島社)が話題です。仕事だけではなくプライベートも充実しているという中尾さんに年を重ねた今の「人生の楽しみ方」についてじっくり伺いました。発売中の「朝日脳活マガジン ハレやか 2024年12月号」(朝日新聞出版)より抜粋して紹介します。 * * * 「そのうち」ではなく「今すぐ」やってみる  15歳で芸能界に入り、おかげさまで途切れることなく仕事をしてきました。でも50代になった時、ふとプライベートの過ごし方があまり充実していないなーって思ったんです。人生100年時代と言われますが、50代は折り返し地点。今始めなければ手遅れになってしまうという焦りもあって、さまざまなことにチャレンジすることにしました。  水泳を始めたり、自動車の運転免許を取ったのも50代。60歳からは俳句を始め、70歳を過ぎてからはDIY(ものづくり)に凝っていて、興味を持ったことは「そのうち」ではなく「今すぐ」始めるようにしています。  実は、50歳になるまで泳げなくて、ハワイに行っても日焼けしているだけ。プールに飛び込んで楽しそうにしている仲間をうらやましく眺めているだけでした。そんな時、元水泳日本代表の木原光知子さんに教えていただく機会を得て、50歳から水泳を始めたんです。1年間練習してアマチュアの女性を対象とした「ウーマンズ・マスターズ水泳競技大会」に出場するまでになりました。さらに4年に1度開催される「世界マスターズ水泳」のイタリアとオーストラリアの大会にも出場し、銀メダルを取ったんですよ。  泳げるようになり、大会にも出場できた喜びもありますが、水泳を通じて改めて健康を意識するようになりました。水泳は全身運動ですし、体力がついたのと体幹も強くなりました。健康でなければ、仕事も新しいことにもチャレンジできないでしょう。  自動車の運転免許を取ったのは、水泳などの趣味を広げていくうえでの移動手段のため。人に頼るよりも、自分で運転できるようになったほうが便利だろうと思ったからです。ただ、運転はあまり好きではなかったですね。助手席に座っているほうが私には向いているみたい。積極的にドライブに出かけることはありませんでした。せっかく取った免許ですが、今年で返納しました。やはり事故は一瞬ですし、怖いですからね。 1962(昭和37)年、まだ「可愛いベイビー」のヒット前に朝日新聞に大きく取り上げられた15 歳のツイストを踊る中尾ミエさん。記事には「実力のほどは未知数」と書かれているが、ここからすぐ国民的スターに。(提供/朝日新聞社) “ほどほど”の距離感が人間関係を長続きさせる  健康面では、ほかにもスポーツジムに通ってパーソナルトレーニングを受けるなどしていますが、早朝に近くの公園でのトレーニングも毎日の日課になっています。  すべり台の階段に片足をのせてストレッチしたり、ベンチに寝て開脚したり、鉄棒にぶら下がったり。最初は、ぶら下がることすら全くできなかったのに、毎日続けてきたことで、いまでは懸垂だってできるようになりました。  そんな私の姿を見て、いつの間にか近所の同世代の人たちが集まるようになったんです。最高齢は86歳で、78歳の私は若手のほうです。朝7時から公園に集まって、私のマネをしてストレッチをしたり、鉄棒にぶら下がったりするようになり「ミエ道場」って呼ばれています。毎日鉄棒にぶら下がっていたら「身長が1センチ伸びた」とか、運動で筋肉がついて「胸が大きくなった」なんていう人も。  ただミエ道場に参加しているのは女性ばかり。同世代の男性も公園で見かけるんですが、一緒に運動しようとはしませんね。最近、医師の和田秀樹先生との対談をまとめた『60代から女は好き勝手くらいがちょうどいい』(宝島社)という本を出したんですが、その中でも、シニア世代は男性よりも女性のほうがずっと元気なことについて話してます。和田先生が言うには60歳を過ぎると、女性は男性ホルモンが増え、逆に男性は減ってしまうとのこと。男性ホルモンが増えると活発になるようで、確かに、街で見かける元気なシニアの多くは女性ですよね。  人づき合いも女性のほうが積極的で、私も運動仲間がいるからこそ、毎朝欠かさず公園に行けるんだと思います。1人きりだと、心が折れちゃうときもあるけれど、仲間がいるからこそ頑張れる。  ただ、この年齢になると新しい仲間を作るのが難しいとか、少し面倒に感じる人も少なくないそうです。それは、必要以上に深入りしちゃうから。あまり深入りすると人間関係が複雑になったり、面倒なことが起こることもあります。だから、距離感を上手に保つことも大切です。ミエ道場の仲間はあくまでも一緒に体操する友達という線を越えずに、朝の体操が終われば「また明日ね」っていうくらい。その距離感が長続きするコツですね。 中尾ミエさん(撮影/和仁貢介) 健康とチャレンジが人生を楽しくする  あと、いま楽しいのがDIY。年齢のこともあって、何か新しいものを買うよりも、これまで使ってきたものを長く大切に使うために自分で直したり、自分で作ったりしています。自分で作れば愛着も増すでしょう? 仲間と庭に置くテーブルやベンチを作りましたし、塀の塗り替えは全部自分でやりました。  皆さんも、「あれがやりたい」「これを試してみたい」って思うことの1つや2つはきっとあるはずです。でも、「もう年だから……」ってあきらめていませんか? 私は、歳をとった今だからこそ、新しいことにチャレンジすべきだと思うんです。若いころの一年と歳をとってからの一年では、同じ365日でも貴重さが違うもの。人生の折り返しを過ぎて、誰でも残された時間的に限られてくるのだから、一日でも無駄にすることなく、やりたいことは今すぐやらなきゃいけないって実感しています。  新しいこと、好きなことに巡り合えるのってとても幸せなこと。仕事もプライベートもいつも新しい目標を持ち、それを励みにして人生を楽しむ。  誰でもいずれは自然と最期が訪れるものです。でもすべて終えてしまって何もやりたいことがないまま、その時を迎えるのは面白くないですよね。後悔のない人生とは、すべてをやり切ることではなく、いつも新しいチャレンジをして、道半ばで生涯を終えること。それが一番の幸せなんじゃないかって思うんです。  人生100年時代といわれるけれど、ただ寿命だけ延びるよりは、「今が一番楽しい」って、常に思えるように生きたい。そのためにも、健康とチャレンジは欠かせないと思っています。 (構成・文/山下 隆) 中尾ミエさん(撮影/和仁貢介) なかお・みえ/1946(昭和21)年、福岡県生まれ。1962(昭和37)年、デビュー曲「可愛いベイビー」の空前の大ヒットで一躍大スターとなる。園まり・伊東ゆかりと組んだ「スパーク3人娘」としても活躍。芸能生活60年を超えた今も俳優として映画やドラマに多数出演している。歯に衣着せぬ物言いにファンも多く、トーク番組や情報番組のコメンテーターとしても人気を集める。情報番組「5時に夢中!」(TOKYO MX)にレギュラーコメンテーターとして出演中。2024年9月には『60代から女は好き勝手くらいがちょうどいい』(宝島社)を上梓。同書では「頭も身体も老いない秘訣とは何か?」という誰もが知りたいテーマを、シニアの生き方や健康について数多くのベストセラーを出し続ける精神科医の和田秀樹先生と語り合っており、60代を超えてもずっと健康で楽しく生きるための秘訣やコツがわかる一冊となっている。
【徹底解説】ポイント5大経済圏の最新状況 物価高に負けないポイ活の攻略法
【徹底解説】ポイント5大経済圏の最新状況 物価高に負けないポイ活の攻略法 写真はイメージです(写真:Getty Images)    物価高が続く中、「ポイ活」への注目が高まっている。コツをつかんで効率よくためれば、家計の強い味方になるのは間違いない。AERA 2024年12月9日号より。 *  *  *  鈍化傾向を示してきたとはいえ、依然として物価の上昇は続いている。つまり、家計のピンチはいっそう深刻化しているということだ。特に主食のコメが59%弱も値上がりしたのは、多くの家庭で大きな打撃となっているだろう(10月の上昇率)。  そこで、今こそ積極的に取り組みたいのがポイ活だ。現在、巷には多彩なポイントサービスが存在し、生活の様々なシーンで付与されている。ポイ活とは、それらを効率的に貯めること。節約には限界があるものの、ポイントを上手に獲得できれば、実質的に必要最低限の出費に抑えることも可能だ。  では、効率的にポイントを貯めるコツとは? ポイ活巧者に共通しているのは、特定のポイント経済圏にターゲットを絞り、そのエリアに支出を集中させていることだ。ポイント経済圏とは、消費者の囲い込みを目的に、複数の企業が共通のポイントを付与することで提携を結んでいるもの。企業側の思惑を上手く利用し、できるだけ有利にポイントを獲得するわけだ。 店舗から金融まで広範  eコマースからリアル店舗、携帯電話や金融サービスといった広範の領域でポイ活が可能な巨大ポイント経済圏としては、(1)ドコモ、(2)Vポイント、(3)PayPay、(4)au、(5)楽天の五つが挙げられる。順を追って、それぞれの概要を説明しよう。  まず、ドコモ経済圏はその名の通りでNTTドコモが中核となっており、貯められるのはdポイントだ。ドコモ携帯電話の利用、d払いやdカードといった同社の決済サービスはもちろん、マネックス証券やアマゾン利用でもポイントを貯められる。 「これまでドコモ経済圏の弱点は金融とeコマースでしたが、マネックス証券の子会社化とアマゾンとの提携によって強化を図っています。まだ銀行は傘下に有していないため、これから吸収合併や提携などの手を打ってくる可能性も考えられます」 AERA 2024年12月9日号より    こう指摘するのは、ポイント交換案内ポータルサイト「ポイ探」代表取締役の菊地崇仁さんだ。また、dポイントはメルカードやメルペイなどを提供するメルカリとも提携している。  もともとVポイントは三井住友グループの共通ポイントサービスだったが、2024年4月にカルチュア・コンビニエンス・クラブのTポイントを統合して規模が拡大した。自前の携帯電話サービスを有していないのがネックだが、対象の三井住友カードで対象コンビニ・飲食店で最大7%のポイントが付く。三井住友銀行のOliveアカウントでも、所定の条件を満たせばポイントが貯まっていく。  PayPayは言わずと知れたコード決済の最大手で、同社のコード決済やクレジットカード、傘下の金融機関(PayPay銀行、PayPay証券)の利用でポイントが貯まるのは当然のこと。ソフトバンクの連結子会社だから、同社携帯電話やYahoo!ショッピングの利用もポイント付与の対象に。また、同じく関係性の深いLINEポイントとの交換も可能だ。  なお、アマゾンではPayPayによる決済も可能で、同eコマースでもPayPayポイントを貯められる。これに対し、前述したdポイントは事前に連携手続きさえ済ませておけば、アマゾンで5千円以上買い物すると付与される仕組みに。 KDDIの異なる戦略  一方、au経済圏で貯まるPontaポイントは、三菱商事の関連会社であるロイヤリティマーケティングが発行している。同社は2019年12月にKDDIと資本業務提携。これを機に、au WALLETポイントがPontaに統合された。 「KDDIは三菱商事とローソンの共同経営に乗り出すなど、他の経済圏とは異なる戦略を採っています」(菊地さん)  大手通信の中で、傘下にコンビニを有するのはKDDIのみ。auの携帯電話ユーザーで最寄りのコンビニがローソンという人なら、Pontaポイントに的を絞るのが有利だろう。  ただ、ローソンではポイントカード(アプリ)を提示するだけで、d払いでなくてもdポイントを貯めることも可能だ。ファミリーマートでも、事前登録を行えば、ファミペイのバーコードを提示するだけでdポイント、Vポイント、楽天ポイントのいずれかを付与してもらえる。 AERA 2024年12月9日号より    セブン-イレブンは独自ポイントのセブンマイルを採用しているが、PayPayポイントやVポイントに交換することも可能。特に注目はVポイントで、所定の条件を満たせば還元率が10~20%にアップする。先述したように、Vポイントは携帯電話との連携がないのが弱みだが、菊地さんはこうアドバイスする。 「おのずとポイントが貯まりやすい構図になるので、自分が使っている携帯電話で経済圏を選ぶのが基本。還元率で攻勢をかけるVポイントは、メインの経済圏との併用が効果的」  残る楽天の説明が遅くなったが、eコマースからクレジットカード、コード決済、携帯電話に金融サービスまで一つのブランド名で統一されており、最もわかりやすい経済圏だと言えるだろう。携帯電話事業の不振でポイント付与率の改悪が批判されたが、楽天のサービスにすべてをまとめれば非常に貯めやすいことに変わりはない。  菊地さんによれば、本体のスーパーに加えてコンビニ(ミニストップ)、銀行も持つイオンのWAONも5大経済圏に迫る勢力だという。WAONPOINTをdポイントやVポイントに交換できることは、それらの経済圏住民に朗報だ。 「自分の生活圏に路線網がある鉄道会社のポイントサービスも要注目。沿線上には系列の商業施設もあるので、自然と貯めやすいでしょう」(菊地さん)   JR東日本によれば、同社のポイントサービス会員数は月々7万~10万人ペースで増加中。また、JR西日本のサービスを上手に活用すれば、新幹線に半額相当のポイントで乗車可能とか。生活防衛にとどまらず、ポイ活が励みにもなりそうだ。(金融ジャーナリスト・大西洋平) ※AERA 2024年12月9日号より抜粋 (【後編はこちら】「ポイントがポイントを生む」好循環の仕掛けとは 投資初心者こそ試したい元ゼロのポイント投資)  
堀ちえみ、がんで舌の6割以上を切除で「『イス』の2文字がうまく言えなかった」 苦悶のリハビリに涙
堀ちえみ、がんで舌の6割以上を切除で「『イス』の2文字がうまく言えなかった」 苦悶のリハビリに涙 堀ちえみさん(撮影/加藤夏子)    ステージ4の口腔がん(舌がん)から闘病生活を経て、2020年9月に芸能界に復帰した、歌手でタレントの堀ちえみさん(57)。メディア出演や講演活動、書籍を通してがんの実体験を伝えているほか、昨年は本業の歌手で芸能活動40周年記念のライブを開催。今年も10月に「CHIEMI STYLE 2024 Autumn」を渋谷で行うなど精力的に活動している。がんにより、見える景色が手術前とまったく変わったという堀ちえみさんが、壮絶な闘病生活、芸能界に復帰した理由などを語ってくれた。 * * * ――今日は講演活動の後にインタビュー取材を受けていただき、ありがとうございます  いえいえ、言葉を多く話した後の方がスムーズに話せるんですよ。私のしゃべり方で分かると思うんですけど、手術前のしゃべり方と全然違う発声法になりました。頭の中で一度使う言葉を母音と子音に分けて音を出している感覚ですね。もう慣れましたけど、最初は大変でした。 「ありがとう」も音の組み合わせで言いづらい ――発声法は具体的にどのように変化したのでしょうか  口腔がんで舌の6割以上とリンパ節を切除し、太ももの組織を移植して再建する大手術を受けました。その後に舌の先(舌尖/ぜっせん)が壊死していたので、切り取らなければいけなくなって。舌の先を動かすことで不明瞭な言葉がクリアに聞こえるのですが、私は舌尖がないのでうまく言葉を出せない。手術後のリハビリで最初は「あ」から「ん」まで一文字ずつ毎日発声練習をしました。ら行が苦手だったので、舌をタッピングするようにして、「らっらっらっ」「るっるっるっ」と繰り返して。  その後に「サル」「リス」とか2文字の単語に挑戦して。苦手な音が前に来るか、後に来るかで発声のストレスが全然違うんです。例えば、「スイカ」はスムーズに言えても、「イス」がうまく言えない。「ありがとう」も音の組み合わせで言いづらいんです。でも苦手だから遠ざけているといつまでもしゃべれない。掃除しているとき、食器を洗っているとき、とにかく発声を繰り返していました。 ――根気が必要なリハビリですね  今まで言えていた言葉が言えなくなることは、想像以上に辛かったです。単語、文章を練習した後に絵本を音読することになったんですけど、子どもに読み聞かせをしていた自分がまさか絵本を使うことになって……。想像もしていなかったので、このときは涙が止まらなくなりました。 ――口腔がんの診断を受けたのが2019年2月でした  半年前に舌の裏側に小さな口内炎ができたのですが、そのときは持病のリウマチ治療薬の副作用ではないかと診断されました。健康には人一倍気を遣ってきたつもりです。毎年人間ドック、婦人科検査、脳ドックを必ず受けていました。でも、このときはご飯が食べられないし、水も飲めない。口をすすいだだけでズキーンときて、寝ているときも痛くて目が覚める。激痛が続く中で夜中に目が覚めたとき、「舌の口内炎、治らない」というワードで検索したら、「舌がん」と出てきて。  私の舌の症状と同じ画像がたくさんあって、「リンパに転移」と書いてあるのを見つけたんです。自分の首を触ったら付け根に大きなしこりがあって、「あっ!」って。後日、大きな病院で簡易検査を受けたら悪性と出て、舌の状態がステージ3、リンパ転移が見られるのでステージ4のがんだと言われました。 「生きているのも不思議だよね」 ――告知を受けたときはどんな気持ちでしたか  驚きはなかったです。すごい痛みで微熱も続いていたので、「生きているのも不思議だよね」と冷静に受け止めている部分があって。「5年生存率」が高い選択肢で手術を受けることになりましたが、不測の事態を考えて身辺整理をしました。家の中を断捨離して、それまでは夫婦が別々にそれぞれ管理していた銀行口座を、主人に全て任せて。暗証番号やパスワードなどもすべて伝えました。 ――手術が成功した後の精神状態はいかがでしたか  病院を退院して自宅に戻ると、昼は主人が仕事に出掛けて、子どもたちも学校に行くので1人になります。そうなると、まったく違う2つの感情が芽生えるんです。1つは、目に映る風景が何を見ても美しいし、耳を澄ましたら空気の音を感じられて、「生きていることはなんて素晴らしいんだろう」と感謝の思いです。  もう1つは、それと正反対に「どうして私が病気になったんだろう」「何で生きてしまったんだろう」という感情も出てきて。負の感情に必死に蓋(ふた)をしようとしても出てしまう。家族がこの様子を見ていて、「このままではもったいない生き方をしてしまう」と芸能界復帰を目指すことを提案してくれました。発声法のリハビリは目標があったほうが進むし、やる気が起きるんじゃないかと。 ――20年1月に芸能界復帰し、昨年は芸能活動40周年のライブを行いました  ステージで歌うことに不安、怖さはありました。こういう状態で歌ったときに、ファンの方たちががく然としないかな、幻滅しないかなって。でも温かく迎えてくれて、「生きてくれてありがとう」って叫んでくれた方がいて。がんになったときは二度と歌えないとあきらめていたし、頑張ってきてよかったなと。ファンの方たちには感謝の思いしかありません。家族も会場に来てくれたのですが、長女が「お母さん歌ってよかったね!」とすごく喜んでいたのが印象的でした。 ボイトレ続けたら出なかったキーが出るように ――ご家族の支えがほんとに大きかったんですね  私ががんの宣告を受けたとき、長女は16歳でした。思春期の多感な時期に私が病気になったので、心配を掛けさせたくないと大人にならざるをえなかったと思います。私は家族にしか自分の思いをぶつける人がいないから、涙を流して悔しい思いを吐き出していたけど、長女や夫、他の子どもたちも辛かったんだなって。私だけでなく、がんになった当事者の家族は辛い思いをしていると思います。自分の経験がお役に立つなら伝え続けていきたいですね。 ――発声法を変えて音域が広がったとうかがいました  そうなんです。ボイストレーニングを続けたら、出なかったキーが出るようになって。元に戻ることはできないけど、人間ってすごいなと思いました。がんになって失ったものはありますけど、気づかされたこともたくさんあります。日本語は英語みたいに破裂音が強いわけではなく、舌と唇、頬の内側、歯茎などいろいろな部分を使ってきれいな音を出します。言葉を紡ぐことで日本語独特の奥ゆかしさが出てくる。今まで気づかなかった魅力を感じましたし、これからも言葉を大切に生きていきたいなと思います。 今年10月29、30日に渋谷であったライブで歌う堀ちえみさん(本人提供) (聞き手・平尾類)   〈後編〉堀ちえみが舌がんから復帰したことに「しぶとい」「消えろ」の誹謗中傷 「親しい人も信じられなくなっていた」に続く https://dot.asahi.com/articles/-/242003 ほり・ちえみ/1967年2月15日生まれ。大阪府出身。ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝したのをきっかけに芸能界入り。82年3月に「潮風の少女」 で歌手デビューし、83年に初主演したドラマ「スチュワーデス物語」が大ヒットした。 女優、歌手、タレントとして幅広く活動していたが、2019年にステージ4の舌がん、リンパ節への転移が判明。手術、闘病生活を経て20年1月に芸能活動を再開した。闘病生活についてつづった著書、ブログ、講演などで自身の実体験を発信している。歌手活動を再開すると、昨年、今年とライブを開催し、今年10月には自身が作詞を手掛けた17年ぶりのニューシングル「FUWARI」を発売した。
全国で広がる「ラーケーション」、子どもにどんな価値がある? 「“ほんもの体験”は、やがて教養や学力になる」
全国で広がる「ラーケーション」、子どもにどんな価値がある? 「“ほんもの体験”は、やがて教養や学力になる」 写真はイメージ/GettyImages)  子どもが平日に学校を休んで保護者と過ごすラーケーション。「ラーニング」と「バケーション」を組み合わせた造語で、昨年度、全国に先駆けて愛知県が導入し、茨城県、山口県など、全国に導入の動きが広がってきています。旅を子どもの教育ととらえる「旅育」も注目を集めています。現代を生きる子どもたちに“ほんもの体験”が必要とされるのはなぜでしょうか。教育評論家の親野智可等さんに子ども時代の体験の意義について伺いました。 家族でラーケーションを使い「東日本大震災」を学ぶ  3歳から10歳まで、小学生2人を含む男の子4人を育てる愛知県在住の女性(40)は、今年6月、家族6人で仙台市を訪れました。ただの観光ではなく、同県が昨年度から導入した「ラーケーションの日」を利用し、子どもたちの学びを意識した旅を計画しました。  旅のテーマは「東日本大震災」。いつ訪れるかわからない大地震に備えて、子どもたちと一緒に学んでおこうと考えたからでした。会社員の夫(42)と半年前から計画を練り、子どもと図書館の本やテレビで下調べをしてから仙台市へ向かいました。  被災からの復興を願ってスタートした「東北絆まつり」は、東北6県の祭りが一堂に会する大イベント。この日に合わせて、ラーケーションは6月に取得。いつもは一家の遠出となると車ですが、平日なのであえて新幹線で現地に向かったそうです。 「平日で人出が少なくて親も心に余裕ができるので、新幹線の切符の買い方から乗り方、マナーまで、いろいろ教えてがあげることができました。新幹線の中で駅弁を食べたのもいい思い出です」と女性は言います。  現地では思いがけない交流も生まれました。 「その場で知り合った地元のおばちゃんたちの計らいで、子どもたちは特等席でお祭りを見物させてもらえました。震災のお話もしてくださり、子どもたちにとって心に刻まれる体験になったと思います」 学校生活だけでは味わえない体験ができる  この祭りのクライマックスは日曜の夜なので、長男次男は翌日の月曜にラーケーションを使って小学校を休み、ゆっくり最後まで楽しみました。帰りに立ち寄った東京では平日のキッザニアで職業体験も満喫したそうです。 「休んだ分の宿題がたっぷりあり、高学年はちょっとかわいそうでしたが、学校から休んでOKと言ってくれるので、後ろめたい気持ちがなく休むことができました」と女性は振り返ります。  学校生活だけでは味わえない子どもたちのこうした“ほんもの体験”は、情報があふれる現代を生きる子どもたちだからこそ「インパクトが大きい」と元小学校教員で教育評論家の親野智可等(おやのちから)さんは解説します。 「図鑑や動画を見て『だいたい知っている』、というのが今の子どもたちだけれども、つい知っているような気持ちになってしまっているんです。ところが現地へ行って、実際に本物を見て触って体験すると、『こんな匂いがするんだ』『なんかぬるぬるすね』『稲ってけっこう切れないんだ』と感じることができます。あるいは宇宙が好きならJAXAへ行って、本物の宇宙服を見ると、『これが本物なんだ』『思ったよりでかいな』といったように、感動を伴う体験は、子どもにとってすごく大きなインパクトになるんです。バーチャルの動画や図鑑、加工された二次情報とは、インパクトの度合いが違います。こうしたほんもの体験が私は大事だと思っています」 子どもの人生に「知識の杭」を打ち込む  親野さんはこうした体験を「知識の杭(くい)」と表現します。 「インパクトのある大感動を伴った本物を体験することで、それに対する興味関心がぐうっと高まり、確実に心に引っかかるようになる。これを私は『知識の杭』と言っています。  “人生”という流れる川に、体験によって知識の杭がばーんと打ち込まれるんです。そうすると、生活の中でそれに関する情報が流れてきたとき、引っかかるようになるんですね。時間が経てば経つほど知識は溜まっていって、やがてそれらが教養や学力になる。  ところが知識の杭がないと、情報がいろいろ流れてきても、全部流れ去ってしまうんです。そういう意味で、ラーケーションはほんもの体験を必ず伴うのですごく子どもにはインパクトがあります」(親野先生) (取材・文/大楽眞衣子) 親野智可等さん  〇親野智可等/教育評論家。教師経験をもとに、子育て、しつけ、親子関係、勉強法、家庭教育について具体的に提案。『子育て365日』『反抗期まるごと解決BOOk』など著書多数。インスタグラムやスレッズでも発信中。全国各地の小・中・高等学校、幼稚園・保育園のPA、市町村の教育講演会、先生や保育士の研修会でも大人気となっている。公式ホームページ https://www.oyaryoku.jp/
「置き配」の窃盗がじわり増加中 被害にあえばほとんどが「泣き寝入り」で宅配ドライバーも不安視
「置き配」の窃盗がじわり増加中 被害にあえばほとんどが「泣き寝入り」で宅配ドライバーも不安視 暴排対策としても有効な「置き配」だが、置かれた荷物を狙う窃盗がじわり増えている(写真はイメージ/gettyimages) 「置き配」は防犯対策としても有効だ。強盗が宅配業者を装う手口があり、警察は業者と対面することなく荷物を受け取る置き配を推奨している。だが、置き配の荷物を狙った窃盗もじわり増えている。 *   *   *  今年9月、近畿地方に暮らす40代の男性はインターネットの通販サイトでモバイルバッテリーを注文した。荷物の到着日は外出予定だったので、ガスメーターボックス内への「置き配」を指定した。  帰宅後、ガスメーターボックスを開けたが荷物は見当たらない。宅配業者に問い合わせると、配達時の画像を見せられた。そこには確かに荷物が置かれた様子が写っていた。  ――何者かに盗まれてしまったのだ。  男性は宅配業者に対応を求めたが、返答は「指定された場所に荷物を置いた時点で配達は完了となるため、後はお客様の責任になります」。  宅配業者から「通販サイトに相談するように」とうながされて問い合わせたものの、対応を断られた。男性は警察に盗難届を出した。被害額は約8000円。  こんなケースもある。同10月、首都圏に住む30代の女性はフリマアプリを利用してネックレスを販売した。荷物を発送し、しばらくするとスマホの画面に「配達済み」と表示された。  だが、いつまで経っても購入者から受け取り評価のメッセージが届かない。  その後、購入者から「置き配を指定したところ、盗難に遭い、商品を受け取っていない」という連絡を受けた。女性は「受け取り評価がないと、商品取引が完了しないため、入金されないかもしれない」と困惑する。  置き配は非接触で荷物の受け取りができることから、コロナ禍に感染症対策として注目された。宅配業者にとっては再配達の負担を減らし、効率化が図れるというメリットもある。  昨今、凶悪化が報じられる「強盗」対策としても有効で、「宅配業者の訪問があったときは、できる限り業者と対面することなく、非対面での受け取りを希望してください」と警視庁の担当者は話す。  だが、ここへきて置き配の「盗難」がじわり増えている。 便利な置き配は「善意」に支えられていることを実感する=米倉昭仁撮影 保険での救済は2%未満  国民生活センターによると、置き配された荷物の盗難の相談が増え始めたのはコロナ禍の2020年。22年には置き配の盗難リスクについて、注意喚起を行った。現在も被害は増加傾向にあるという。  残念ながら、置き配の窃盗犯が検挙され、商品が戻ってくることはめったにない。ほとんどのケースは泣き寝入りだ。  昨年度、東京都内で「置き配が盗難に遭った」という消費生活センターへのトラブル相談は368件。今年度は上半期だけで234件と、かなり増えている。  このうち、盗難保険の補償によってトラブルが解決したケースは昨年度で5件、今年度上半期は5件。 「盗難被害のうち2%弱しか補償されていません」と、東京都消費生活総合センター・相談課長の高村淳子さんは明かす。  まず、置き配盗難保険自体が少ない。大手宅配3社(ヤマト運輸、佐川急便、日本郵便)のうち、置き配盗難保険を用意しているのは日本郵便だけだ。1事故当たりの支払い限度額は1万円(送料、消費税および使用ポイント分を含む)。  補償を受けるには被害者が盗難に遭った証拠を集め、警察に盗難届を提出しなければならない。保険金請求フォームに盗難届の受理番号を記入する必要があるからだ。ところが、盗難届が受理されないケースが多いのだ。 「一番の問題は、『盗難』なのか、『誤配』なのか、よくわからないことです」(高村さん) 商品が再送されることもあるが 「置き配」では、現在、ほぼすべての宅配業者が指定された場所に荷物を置いた時点で「宅配完了メール」を荷受人に送信する。  配達した状態の写真を添付せず、メールだけを送信する業者もある。この場合、荷物が届いていなくても、「誤配」の可能性が生じる。確実に荷物が配達されたことを証明できなければ、盗難届は受理されない。  また、「置き配」で盗まれる荷物の多くは通販サイトで購入した商品だという。  同センターは「注文した商品が届いていない」旨を通販サイトにメールするか、書面で伝え、調査を依頼することをアドバイスする。通販サイトに相談した時点で、同じ商品を再送してくれることもある。しかし、対応を断られれば、「まず、泣き寝入りとなってしまう」(同)。 「家電製品のような高額商品が被害に遭ってしまい、『もう置き配は使わない』と、悔やむ人もいます」(同)  商品の配送の初期設定が「置き配」になっている通販も増えてきた。それに気づかず、置き配された荷物を盗まれてしまったケースもある。 「指定しなければ、対面の配達ではなく、『置き配』になってしまう配送システムに怒りをぶつける人もいます」(同) 宅配ドライバーの多くが不安  宅配ドライバーたちも置き配に不安を感じている。  宅配ボックス大手「ナスタ」(東京都)は昨年11月、宅配ドライバー400人に置き配についてのアンケートを実施した。  荷物を置く場所として断トツで多く利用していたのは「玄関先」で66.5%。「宅配ボックス」は28.2%、「郵便受け」は1.8%だった(複数回答)。  荷受人から「玄関先」を指定されて荷物を置いた後、「荷物がない」というクレームを受けた経験のあるドライバーは18.3%。玄関先に荷物を置くことを「不安だと思う」という回答は75.3%に達した。 盗難リスクの軽減策は  では、「置き配」荷物の盗難を防ぐにはどうすればいいのか。  置き配された荷物を盗難から防ぐには、配達完了メールを受け取ったら、なるべく時間をおかずに荷物を回収することだとセコムの濱田宏彰研究員はいう。  宅配業者が自宅を訪れた際、手が離せなかったため、インターホンで置き配を依頼。数時間後に確認したら荷物がなくなっていたというケースもある。  ヤマト運輸は置き配の日時指定が可能なサービスを「クロネコメンバーズ」「EAZY」で展開している。 「お客さまの在宅・帰宅時間に合わせてご指定いただくことで、少しでもお荷物の盗難リスクを軽減できると考えております」(ヤマト運輸)  佐川急便も「スマートクラブ」に登録すれば同様のサービスを受けられる。  記者も置き配のお世話になっているが、さいわい、盗難に遭ったことはない。近隣の人たちも同様のようだ。置き配は「善意」に支えられていると実感する。破綻せずに続いてほしい。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)  
平日に学校を休んで家族旅行はアリ? 休んでも“欠席扱い”にならない「ラーケーション」が全国に広がる背景とは
平日に学校を休んで家族旅行はアリ? 休んでも“欠席扱い”にならない「ラーケーション」が全国に広がる背景とは 写真はイメージ(GettyImages)  子どもの学び(ラーニング)と保護者の休暇(バケーション)を組み合わせた子どもの新しい学びスタイル「ラーケーション」が、じわりと全国に広がってきています。2023年9月から愛知県が全国で初めて導入した制度で、自主学習活動は学校に登校しなくても欠席扱いにはならないというもの。子ども時代の豊かな体験の重要性は、保護者の間でも理解が広がってきて、ラーケーションの有無にかかわらず平日に家族旅行へいく家庭も多くなってきましたが、それには懐疑的な声も。ラーケーションの現在や、平日に学校を休むことの是非について専門家らに聞きました。 全国に広がりつつある「ラーケーション」 「ママが一緒に公園で遊んでくれるって何年ぶり? この時間がずっと続けばいいのにね」  そう言って見上げる10歳の娘の言葉に、「ぐっときた」と話すのは茨城県に住む40代女性です。経営者という仕事柄、土日も仕事になることが多く、土日に子どもの習い事が入ることも。平日は学校で目一杯がんばってくる子どももくたくたで、土日にお出かけするのは混雑している人気スポットばかり。「気付けばゆっくり過ごす親子の時間を持てていなかった」と女性は振り返ります。  昨年9月、愛知県(名古屋市は除く)が全国で初めて導入した「ラーケーション」。ラーニング(子どもの学び)+バケーション(保護者の休暇)の造語で、愛知県が推進する「休み方改革」プロジェクトの一環で生まれた制度です。子どもが平日に学校を休んで保護者らと一緒に過ごし、学校ではない場所で興味のあることを体験し、探究して学びを深めようという画期的な取り組みで、欠席扱いにはなりません。愛知県は年3回までで、分散して取ることも、連続して取ることもできます。このラーケーションの動きが全国にじわりと広がり、2024年11月現在で愛知県(年3回)、茨城県(年5回)、山口県(年3回)のほか、大分県別府市、栃木県日光市、沖縄県座間市など、県や市町村単位で拡大してきています。  前述の女性が暮らす茨城県では、今年4月から導入。この親子が選んだ行き先は、車で20分の近くのぶどう園と運動公園でした。「あえて近場を選んだ」といいます。 「時間かけて遠出するよりも、移動時間を短くしていつもと違う平日を2人でゆっくり過ごしたいね、と言って決めました。気になっていたぶどう農家さんの畑へ行って、ぶどうの味や品種についてたくさん教えてもらいました。そのあと2人でランチして、広い公園へ行きました。平日だから誰もいなくて、一緒に歩きながら歌ったり、遊具に登って遊んだりもしました」 「この時間が続けばいいのに」娘の言葉で行動を変えた  ラーケーションを取ったことで、親子の時間が足りていなかったことに気付かされたそうです。 「『この時間が続けばいいのに』と娘に言われて、子どもって大人よりすごく親子の時間を大事にとらえているんだなぁって感じました。ラーケーションのあと、今の生活スタイルを見直して、子どもと共有できる時間を1週間に1回でも取る、と目標リストに書き加えました。次のラーケーションは、2人で藍染体験に行きます」  平日の魅力といえば、混雑を避けゆっくり過ごせること。ゆえに人気のアミューズメントパークを選ぶ家族も少なくありません。  愛知県で暮らすパートの40代女性は、今年9月の金曜日、ラーケーションを利用して小学3年の娘(9)と2人でユニバーサルスタジオへ行きました。平日が休めない夫とは週末に合流。昨年は初めてのラーケーションを利用し、家族3人でディズニーランドへ。女性は「親子で行く修学旅行のようでした」と振り返ります。一方、「周囲の誰もが気軽に使えている雰囲気ではない」と打ち明けます。 「うちの子の周りを見ると、土日が仕事で平日休みの保護者や、平日休みを取りやすい保護者はラーケーションを利用している印象です。わが家も今年は母と娘の2人旅でした。ラーケーションを取れる子は取るし、どこも行かない子は行かないという雰囲気です」と話します。 「仕事の都合で難しい」保護者が23%  愛知県教育委員会がラーケーション導入初年度の今年1〜2月、市町村立学校の保護者を対象に実施したアンケートによると、「既に取得した」「取得する予定」が合わせて35.4%。一方、「取得したいが、仕事の都合で難しい」という保護者は23.6%という結果でした。  愛知県教育委員会の担当者は、「ラーケーションは、子どものラーニングと大人のバケーションで、そこで子どもは何を学ぶかを明確にすることが重要です。遠出しなくても親の職場を見学する、公園で生き物を観察する、親子で料理をするなど、活用方法はさまざま。大切なのは、子ども本人が追究したいことを親子で探究することです」と話します。 「ラーケーション制度」、課題は?  子どもの新たな可能性が広がるラーケーションについて、元小学校教員で教育評論家の親野智可等(おやのちから)さんは、「いつもは忙しく過ごす親子が、“ほんもの体験”を伴いながら一緒に過ごせる素晴らしい制度」と評価します。  一方で、児童生徒の格差が出ないよう気を付けることが大事だと指摘します。 「ラーケーションに限りませんが、よく言われていることは、親の経済格差によって子どもの体験格差が生まれる、ということです。でもお金や時間が十分にない親はいっぱいいるわけで、そのまま自然に任せていると、格差が拡大することは目に見えています。  校外での学びという意味では、家の中や近所でもラーケーションにはなるかもしれませんが、やっぱり子どものときめき感は少ないでしょう。子どもは必ず友だちと比べてしまいます。  だからこそ補うものが絶対必要になるわけです。いろいろなアイデアがありますが、ラーケーションで利用できるクーポン券を出すなど、自治体の補助が必要になってきます。こういうところに自治体はお金をかけるべきです」(親野さん) 「家族旅行で学校を休む」 それっていいの?  旅を教育と捉える「旅育」の考え方も広がるなか、ラーケーションに関わらず、平日に小学校を休ませて国内外を旅行したり、アミューズメントパークを楽しむ家庭も、以前より増えているようです。「私の時代は、『熱があっても学校へいけ!休むなんてとんでもない』と言われていたので、家族旅行で学校を休む子どもの同級生たちを見ると、違和感がある」(港区の40代女性)という意見も。こうした現状に対して、親野さんは「これも当然いいことだと思う」と肯定します。 「学校だけで教育は完結するものではありません。子どもが学校へ行く目的は、子どもを伸ばすため、幸せにするためであって、学校は手段です。いま不登校の子どもがとても増えていますが、『どうしても学校へ行かせなくちゃ』という考えは、手段を目的化してしまっていると感じます。  平日に学校を休んで親子でテーマパークや海外旅行を楽しんだとして、それでその子が幸せな気持ちになって、成長していくのだとしたら、学校を何日か休んだっておつりが来るくらい得るものは大きいのではないでしょうか」(親野さん) (取材・文/大楽眞衣子) 親野智可等さん  〇親野智可等/教育評論家。教師経験をもとに、子育て、しつけ、親子関係、勉強法、家庭教育について具体的に提案。『子育て365日』『反抗期まるごと解決BOOk』など著書多数。インスタグラムやスレッズでも発信中。全国各地の小・中・高等学校、幼稚園・保育園のPA、市町村の教育講演会、先生や保育士の研修会でも大人気となっている。公式ホームページ https://www.oyaryoku.jp/
鈴木涼美が振り返る「小手先のテクニックでいまいちなものを量産していた時期」 作家として守りたいマイルールとは
鈴木涼美が振り返る「小手先のテクニックでいまいちなものを量産していた時期」 作家として守りたいマイルールとは 鈴木涼美さん  作家・鈴木涼美さんの連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」。本日は特別に、悩めるオトコにお越しいただきました。 Q. 【vol.28】書けない日があることに悩む物書きのワタシ(30代男性/ハンドルネーム「ヴィヒタ」)  わたしもフリーランスの物書きをしています。ただ、一日に書ける分量が安定せず、二十枚くらい書ける日もあるのですが、ならすと五枚にも満たない日が多いため、もう少し一日に書ける分量を安定して増やしたいです。涼美さんはたくさん書かれ、発表されていると思いますが、その秘訣はなんですか? よろしければアドバイスお願いします。 A. 一文字に悩んで暮れる日があってもいい  私の場合、一日平均の書く量が一番多かったのは会社を辞めて三年目から五年目くらいの時だったと思います。とは言っても多い人に比べればたいしたことはなく、平均で十枚ちょっとでした。その前はもっとばらつきがあって、たまに二十枚書いて、まったく書かない日が何日も続いて、という感じだったし、その後はまったく書かない日はかなり少ないものの、平均枚数にすれば一日十枚に満たないペースだと思います。ちなみに今は出産後ちょうど二カ月ですが、ここ二カ月は週の平均がせいぜい二十~三十枚という程度、パソコンを開くことができない日もあるし、たった数枚のゲラに赤字をいれるのに締め切りが守れなかったこともありました。 安定している=手慣れている  そんな感じで、別に私はハイペースで安定して書いてきたわけではないのですが、一つ言えるのは最も平均枚数の多かった二、三年の間に書いたものは、必ずしも気に入っていないということです。安定したペースで書いていたということは、悪い言い方をすれば手慣れてしまって、小手先のテクニックで自分が書けるとわかっているクオリティのものを量産していた時期でもあるからです。当時書いた本を読み返すことは滅多にないですが、別にめちゃくちゃつまらないわけでも、駄作ばかりというわけでもないとは思いつつ、器用さで書けてしまっている感は否めません。それはフィクションであれエッセイであれちょっとした映画コラムや書評であれ、そうです。  それに対して、自分が比較的好きな作品を書いた時のことを思い出すと、一カ所の形容詞が気に入らなくて、その七文字を削ったり書き直したりしていたら一日経ってしまったということもあれば、図書館でトイレも行かずに二十枚以上書いた日もあるという調子でまったく安定しておらず、時に連載の原稿を休んでいることすらありました。それに、安定して器用なコラムを量産していた時に比べて、ものによっては文章のリズムが悪くかったるいし、全然面白くないエッセイもあるし、書きたいことはあったはずなのに書いているうちに見失って何が言いたいのかわからなくなり、すべて消してしまうようなことも多かったと思います。  今ももしかしたら安定したペースでそこそこのものを書くことはできるかもしれません。それはおそらく新聞記者、つまりサラリーマンライター時代に、気が乗らなくてもつまらなくても書くという訓練をしたからかもしれないし、もともとのある程度の器用さがあるからかもしれない。そういう能力が必要な持ち場というのはあります。生活系の記事が多い、地方面の担当記者だった時にはとにかく一枚の新聞紙を安定した内容の記事で埋めなくてはならなかったし、週刊誌でもインタビュー系のウェブサイトでも、とにかく分量とスピードが求められる場所というのはあるからです。 自分が心底面白がれるものを書く  ただ私の場合はそこそこ器用にたくさんの記事を書いていても、二、三年で自分に飽きてしまうため、多少不安定で、三日かけて書いた二章分を全部消してしまうような時があっても、まれにでいいから自分が心底面白がれるものを書けるほうが性に合っていると思い、形にならない日が続いてもあまり焦らないようにしています。とはいってもそれを仕事にしている以上、一年で一枚の時があってもいい、とか、十年休載してもいい、みたいな特殊な人気漫画のようなことを言うには厳しいものがあります。  気乗りしない時でも、かならず一日一文字以上は書く、いまいちな出来であっても書き上げたものはとにかく一度編集者に見てもらうというのが、少なくとも仕事として書いていくにあたって私が維持したい姿勢です。安定して量産する時に書いたものは気に入らないものが多いとはいえ、一文字も書けない日が続くような時期に書いたものもまた、いまいちなことが多いからです。 連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」では、恋愛、夫婦、家族、仕事、友人など、鈴木さんと同世代の30~40代女性を中心に、お悩みを募集しています。ご応募はこちらのフォーム(https://forms.gle/vH3KMGRGBPJb2TE5A)から! ●鈴木さんからのメッセージ 私はずっと地べたにはいつくばって生きている感じなので、こんな風にすれば素敵な人生送れるよ!というアドバイスは何もないですが、ピンチに陥ったり崖っぷちに立ったりすることは多い日々だったので、痛み分けする気分で、気負わずなんでもお便りお待ちしてます。
なぜ独身時代から「賃貸」でなく「持ち家」にすべきか 元メガバンク支店長が教える「お金を回す仕組みづくり」
なぜ独身時代から「賃貸」でなく「持ち家」にすべきか 元メガバンク支店長が教える「お金を回す仕組みづくり」 お金の専門家・菅井敏之さん(本人提供)  物価高が続き、給料も上がらず、なんとなく生活が苦しい時代。長生きリスクが心配でこの先、お金に困らない生活を送るには……。お金に関する「教えて!」を解決する短期連載の最終回のテーマは、「これから安心して生きるために」。元メガバンク支店長でお金の専門家・菅井敏之さんに、貯蓄も投資も節約も苦手の、バブル時代に青春を謳歌した筆者(バブル女子)が聞きます。教えて、菅井さん! ――世知辛い世の中。報道される闇バイトのニュースを見るにつけ、胸が痛みます。 菅井:若者が闇バイトに手を出す背景として、非正規採用の増加など雇用の劣化による若者の貧困化があると思います。正規雇用であっても、過重労働で時給換算すれば非正規雇用とさほど変わらない。手取りも少なくいつも生存ギリギリ。まだ20代なのに老後のことを心配しなければならない閉塞感があります。だからなのでしょうか。今は多くの若者が限られた手取りの中でやりくりをしてしっかり貯蓄までなさっていますね。 住宅購入を検討すべき ――でも、それだけでは安心できない人がほとんど。物価高ですし、何歳まで生きるかわからないです。借金をしてでもお金を回す仕組みをつくっておくべき、ということでしたね。 菅井:はい。お金に困らない人生を歩むための着実な一歩が、低い金利の住宅ローンを活用した住宅購入です。住宅ローンの利息分は銀行に払う経費ですが、元金分は返済が進めば自分の資産になります。多くの方が結婚して子どもができてから「そろそろ」と家の購入を検討されますが、20代の若い独身時代から住宅購入を検討すべきです。一生住み続ける家ではありません。資産目的の家と割り切る。将来貸しやすい、売りやすい資産性の高い家を購入して「資産」を作るべきです。そもそも資産というものは、負債(借金)と純資産を合わせたものです。 ――連載1回目の復習ですね。 菅井:毎月の家賃を払っているぐらいでしたら、独身の若い方なら中古の30~40㎡くらいのマンションを買ってみてはどうでしょうか。そして結婚まで自分が住んでおき、結婚した時に売却するなり、賃貸に出すなりすればよいのです。 ――結婚といえば、菅井さん。銀行員時代に結婚相談にも乗っていたとか。 菅井:そうなんです(笑)。取引先の企業さんとか、地元の大家さんとか顔なじみになってくるといろんな話になる。うちの子が独身なんだけど……という相談もありました。本来、銀行って、そういう色々なお困りごとの相談場所であるべきだと思うんです。信頼がすべて。ネットワークがすべてかと。 ――どれだけAI社会が進んでも人にしかできないものがありますね。それは人と人の結びつきです。 菅井:私は、税理士の資格も宅建の免許も持っていません。CFP(公認ファイナンシャルプランナー)の資格だってありません。でも私には持っているものがある。それは人脈です。多方面で活躍されるさまざまな人々、たくさんの優秀な方たちとつながっています。そういうものを常に持って、丁寧な人付き合いをしていくことがビジネスで成功していく秘訣かもしれませんね。 ストレスがない生活 ――冒頭で闇バイトに触れましたが、もしも本当に切迫した事情でお金が必要で「助けて」と言える環境があれば、もしかして誰かの命が失われなかったかも……。人とのつながりの薄さを感じざるを得ません。残念です。 菅井:誰かの喜ぶ顔が自分の働く喜びになる。そんな経験を沢山しながら育った子どもは、大人になってからも働く意味や自分の生きる意味を見失うことはないと思います。誰かの「困った」を発見し、それを自分が「解決」する。その対価として「お金」を得る。第二の人生にやりがいを求めてボランティア活動に取り組まれる方もいらっしゃいますが、長続きしないケースも見てきました。どうしても疲弊してしまうんです。お金は「消しゴム」みたいなもので、それによって人間関係をニュートラルにすることができるものです。前回で触れた「ライフワーク」と「ライスワーク」。これを分けて考える方が、ストレスがない生活が送れる気がします。 ――お金は便利ですね。沢山増やせば、消しゴムもいっぱい。より良い関係で人と繋がっていれば、人生も豊かになりますね。好きなことを仕事に出来たら最高ですが、実際にはそれで食べていける人はごくわずかなのかもしれません。 菅井:これまで私はいろいろとお話をしてきましたが、私だって多少なりとも失敗をしています。その都度いろいろな人の力を借りたり、温かい言葉に救われたり、力をもらったりしました。いろいろな経験が今につながっています。結局、お金の使い方に正解はないんです。どういう方法で資産を増やすべきか、自分にあった方法を選べばいいのです。たまたま私はそれがアパート経営だったというだけ。お金が足りない、老後が不安という人は、お金に対する考えを少し改めて「貯める」から資産に「働いてもらう」という思考に少しだけ変えてもよいと思います。 自分株式会社 ――それだけでも全然違いそうですね。 菅井:大事なのは自分の老後や、今の生活にいくら欲しくて、そのためにはどうやってお金をつくっていけばいいのかを「逆算」して考えること。「簡単なこと」と思われるかもしれませんが、多くの方がそれをせずにただ「お金が足りない」と嘆いています。あなたは、「自分株式会社」の社長なのですから、5~20年後の人生中長期計画、つまりライフプランニングを自分で鉛筆をとって行いましょう。それをするだけでも全然違いますよ。お金を回すことを人に感謝し、人の信頼を得ながら丁寧にやっているとお金は増えていきます。 ――ありがとうございました! (構成/AERA dot.編集部・大崎百紀) 菅井敏之(すがい・としゆき)/1960年、山形県生まれ。学習院大学卒業後に、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。東京と横浜で支店長を務め、25年間銀行マン。48歳で早期退職。現在は10棟のアパート経営で年間7,000万円の不動産収入を得ている。また、人気講師として全国で講演やセミナーを行っている。現在は帝国ホテル内でお金に関する相談を受けている。著書に「お金が貯まるのはどっち!?」(アスコム)など。お金の専門家・菅井敏之公式サイト「お金が貯まるのは、どっち!?」(https://www.toshiyukisugai.jp/)
地方からベストセラー本を連発するライツ社 「世の中を揺り動かす本だけを作る」徹底的なこだわり
地方からベストセラー本を連発するライツ社 「世の中を揺り動かす本だけを作る」徹底的なこだわり 「海とタコと本のまち」兵庫県明石市で創業し8年。自分たちが本当に面白いと思う本を世に問い続ける(写真/MIKIKO)    本は売れないと言われて久しい。それなのに、兵庫県明石市の出版社「ライツ社」は、ベストセラーを次々生み出す。編集長の大塚啓志郎は一冊ずつ、丁寧にこだわり抜いて作る。その本を、営業責任者の髙野翔がベストセラーにするべく営業をかける。きちんと作って売れば、出版はまだ儲かる。何よりも本を大事に思う2人が、どうやってヒットを生むのかを追った。 *  *  *  明石海峡大橋を過ぎて西に走る電車の窓に、夏の終わりの光にきらめく瀬戸内の海が現れた。JR明石駅を降り、商店街の新鮮なタコや魚を売る店を眺めながらしばらく歩く。やがて着いた古い5階建てのマンション。1階の窓ガラス越しに数名の男女が机に向かい働く姿が見えた。ここから全国で話題のベストセラーが次々生まれているのが意外に思えるほど、その出版社は住宅街に溶け込んでいた。  髙野翔(たかのしょう・41)と大塚啓志郎(おおつかけいしろう・38)がライツ社を創業したのは2016年のことだ。  出版業界は20年以上にわたり業界全体の売り上げ減少が続いている。スマホの普及で電車内で「本を読む人」を見ることも珍しくなった。そんな時代に兵庫県の明石市で2人は起業した。最初は「無謀」と評する声もあったが、今では「出版界の希望」と言われるほどの快進撃を続けている。  2万部を超えればヒットといわれる近年の出版市場の中で、ライツ社の刊行物のヒット率は驚異的だ。YouTubeで大人気の料理研究家リュウジのレシピ集『リュウジ式至高のレシピ』と同『悪魔のレシピ』はそれぞれ31万部、24万部を超え版を重ねる。写真家ヨシダナギが世界の少数民族を撮影した写真集『HEROES』は1万2222円と高額ながら1万部以上も売れ、数々のニュースに取り上げられた。小説家・知念実希人が執筆した児童向けミステリー『放課後ミステリクラブ』は児童書で初めて本屋大賞にノミネートされ、シリーズ累計25万部を超える。ヒット作に恵まれた2年前は社員一人あたり7千万円もの売り上げを達成。この数字は最大手の出版社に比肩する。 「僕らはもともと出版の良かった時代を知らないので、必死で努力してきただけです」とにこやかに言う髙野。「今でも出版は儲かりますよ。ちゃんとやれば、ですが」と静かに、信念に満ちた口調で語る大塚。 余震の中テーブルの下で 兄と本や漫画を読んだ  なぜライツ社は出版界の逆風をものともせずヒット作を生み出し続けられるのか。  編集長としてライツ社のすべての本の制作に携わってきた大塚は1986年、明石市で男4兄弟の末っ子として生まれた。母が本好きなことから家の壁一面に本が並び、物心つく前からたくさんの絵本を読み聞かされ育った。  8歳のときに阪神・淡路大震災が起き、幸い家族にけがはなかったが、古い木造の家が半壊した。大塚は余震に揺れる家で、ダイニングテーブルの下に兄と潜り込み、本や漫画を読みながら親の帰りを待ったのを覚えている。設計士の父は、震災直後から自宅を後回しに、被災した近所の家々を修理して回った。大塚が父と仕事を手伝う家族の様子を作文に書くと、しばらくして、小学生の震災に関する記憶をまとめた本に収録された。 「誰かに何かを伝えることに関心を抱いた最初のきっかけが、その作文だったと思います」  編集者と打ち合わせをする大塚(上)と、営業の確認をする髙野(下)。ライツ社では改まった会議等を行わず、LINEのやりとりと顔を合わせての会話ですべての本の企画を決め、仕事を進めている(写真/MIKIKO)    勉強とサッカーに打ち込んだ中学時代を経て、県立明石南高校へ進学した大塚は、3年生のときに忘れられない経験をした。 「好きになった同級生の女子が、家族である宗教の熱心な信者だったんです。彼女のことを理解したくて図書館でその宗教について調べ、自分も集会に参加しました。でも結局、同じ宗教を信じる人でないと付き合えないと言われて……。その経験で自分の無力さとともに、『世の中のことについて何も知らない』と感じたんです」  社会のこと、人間のことを深く知りたい。そう考えた大塚は、指定校推薦枠があった関西大学の社会学部で心理学を学ぶことにした。  だが、授業は面白くなかった。目を向けたのは海外だった。ベトナム戦争を取材していたジャーナリストの講義をとり、現地でのスタディツアーに参加すると、枯れ葉剤の影響で障害を持って生まれた人や地雷で手足を失った人の姿に衝撃を受けた。その後、世界の広さを体感するためにバックパックを背負い、トルコ、ヨーロッパ、インド、ネパールなどを一人で旅した。 「そんなときに大学の先輩から『いくら旅をしても、得たものを他の人に伝えないと、意味がなくないか?』と言われたんです」  大塚は旅の仲間たちに声をかけ、自分たちが旅の中で出会った世界の子どもたちの写真展を開催、2日間で関大生を中心に数百名の来客があった。伝えること、たくさんの人に思いが届くことを実感した。  写真展のきっかけをくれた先輩はその後大塚に、『1歳から100歳の夢』という京都のいろは出版が出した本を貸してくれた。1歳から100歳までの無名の一般の人々が、それぞれの「夢」を写真とともに語るその本を読んでいるうちに、感動して涙が止まらなくなった。「この本を出した会社で働きたい」。いろは出版に応募した大塚は、3千人ものエントリーの中から内定を得て、08年から編集者の道を歩み始めた。  ライツ社で営業責任者を務める髙野は、1983年、福井市に生まれた。 「明るい元気な子どもでした。ただすごく忘れ物が多くて。20歳になったときに両親から初めて『昔ADHDって診断されてね……』とその事実を告げられて自分でも納得したのですが、ランドセルを学校に忘れて帰宅するようなタイプでした。本は大好きで、レ・ミゼラブルを読んで感動して泣いたことを覚えてます」  髙野の人生に大きなインパクトを与えた一冊が、中学生のときに読んだ『ソフィーの世界』だ。 「自分は小さな頃から『宇宙が始まる前には何があったんだろう』とか『この世界で本当に意識があるのは自分だけで、他の人は全部ロボットかもしれない』みたいなことを考えていました。そんなときにソフィーの世界を読んで『2千年以上前から自分と同じことを考えている人たちがいたんだ!』とびっくりしました」  成績は良く、地元中学から福井県有数の進学校である県立高志高校に進んだ。だが入学すると全員勉強ができる生徒ばかり。マージャンを覚えたことで成績が急降下した髙野が、唯一高校で面白さを感じたのが「倫理」の授業だった。プラトンやアリストテレスなどギリシャの哲学者たちが、人の幸せやあるべき社会について思索を深めていることに魅了された。自分も哲学者になりたいと考えた髙野は関西大学の文学部哲学科に進学する。 「でも結局、哲学者になることはできませんでした。神戸大の大学院に進んだんですが、周りがものすごく優秀で、自分は努力できなかったんです。4年間ずるずると大学院に在籍しているうちに、彼女にも振られました」 東京の出版社の経営層と4人で席を囲み情報交換。2人が酒席をともにするのは珍しい。「創業直後に1回だけ2人で飲みましたが、会社で仕事も夢も全部話してるからお互いほぼ無言でした」(髙野)=東京・神田小川町の鮪のシマハラプラスで(写真/写真映像部・上田泰世)   失恋でナンパに開眼 その経験が面接で生きる  大好きだった人生初の彼女に去られ、悲しみに沈んだ髙野は、そこから唐突に「ナンパ」にはまる。「女性は星の数ほどいるよ」と慰める友人の言葉に「なのに自分にはぜんぜん話せる女性がいないのはなぜだ」と思ったのがきっかけだ。 「ナンパといっても深い関係が目的ではなく、ただ友だちと一緒に街を2、3人で歩いている女性に『よかったら一緒に飲みませんか』と声をかけて、安居酒屋でごちそうして楽しく話し、さよならするだけです。本職のナンパ師の人には『お前ら何がしたいんだ?』と怒られました(笑)」  髙野は「今考えると『自分が勇気を出せば、世界の全員と友だちになれる』ことを確かめたかったんだと思います」と振り返る。  大学院の在籍期限が近づき、就職先を探し始めたとき、最初は本を大事に思っていたがゆえに出版業界を目指さなかった。だが書店営業の面白さ、楽しさが書かれた本を読み、「営業ならできるかも」と考え始める。関西に愛着がある髙野は、いろは出版の採用に応募。面接でナンパの経験を話すと面白がられ、27歳の新人営業として採用された。  大塚はいろは出版で本づくりへの基本姿勢を、髙野は書店営業の面白さをそれぞれ学んでいく。  入社して4年目、大塚は『僕が旅に出る理由』という本を手掛ける。中央大学と早稲田大学の大学生バックパッカーが持ち込んだ企画だった。大塚は彼らとともに、大学生100人の個人旅行の思い出を文章と写真にまとめた。同書は無名の大学生の本にもかかわらず飛ぶように売れ、4万3千部まで版を重ねる。その経験で大塚は「自分の得意な領域で勝負すれば、無名の著者でも売れる本ができる」と確信した。  大好きな本を売る仕事についた髙野も、書店営業にのめり込んでいった。だが雑貨が商材の中心のいろは出版には一般書の営業ノウハウがなく、書店の新刊棚にとにかく多数積んでもらうしか売る方法がなかった。 「『農家の夢』って本を渋谷のTSUTAYAにゴリ押しで数十冊積んでもらいましたが、渋谷で農家の本が売れるわけありませんよね(笑)。それぐらい何もわかってなかった」  ある日、社外のアドバイザーが雑談で「出版営業って売り方の工夫ができないから可哀想(かわいそう)だよな」と言ったことに、髙野は腹を立てた。 「自分たちが知らないだけで、歴史ある出版社がうちのような単純な売り方をしているわけがない」  そう考えた髙野は知人の書店員が誘ってくれた出版業界の飲み会で、初めて会った他社の営業に「どうやって売っているんですか」とストレートに疑問をぶつけた。そこで初めて、売れた冊数に応じて書店に渡す報奨金のことや、トーハン・日販などの取次に対する営業、書店本部のキーマンの存在や、紀伊國屋書店での実売データの活用法などを知った。 「それを聞いて『やれること、めちゃくちゃあるやん』と、営業が一気に立体的になりました」  大塚が面白い本を作り、髙野が仕掛けて売る。いろは出版の出版部門は着実に成長を続けた。だが2016年、他部門の不振で社員全員の給与がカットされることをきっかけに2人で独立を決意。明石にある大塚の祖父が建てたマンションをオフィスに、ライツ社を設立した。 ライツ社にレシピ本が多いのは大塚が料理好きなことが理由の一つ。レシピを参考に家族に料理を作るのが日常だ(写真/MIKIKO)   「独立したのは自分たちが生きるためでした。僕も髙野も失敗したら、家族全員が食えなくなる。だからこそ一冊一冊に集中して、絶対に売れる本にする。他の出版社にない自分たちの『強み』があるとすれば、その覚悟です」(大塚)  ライツ社は全書籍をベストセラーにすることを念頭に置いた。それには編集と営業が車の両輪となりバランス良く走れるかどうかがカギとなる。髙野と大塚が社長となり、2人が対等に決裁権を持てるようにした。そのうえで、それぞれが自分の業務に専念する。  本づくりにおいて、大塚は細部まで編集にこだわる。たとえば書評家・三宅香帆の『人生を狂わす名著50』を作ったときのこと。三宅が書いたまえがきに「私にとって、読書は、戦いです」という文章を見つけた大塚は、「すべての本に『愛したいvs.愛されたい』といった対立のキャッチフレーズをつけましょう」と提案。さらに50冊それぞれに次にすすめる本3冊の紹介文をつけることも求め、合計200冊の本を同書で紹介した。 写真集の製本にもこだわり 一冊ずつ職人が仕上げる 髙野にとって飲み会は、出版界全体を盛り上げるための決起集会となっている(写真/MIKIKO)   「『良い本を作るにはここまでやるんだ』と、大塚さんにデビュー作で教えてもらいました。その後、いろんな編集者と仕事をするようになって、大塚さんほど徹底してこだわる人は珍しいことがわかりました」と三宅は言う。7年前に刊行された同書は、最近になって最大の増刷がかかり、2万部を超えた。  また、18年にヨシダナギの写真集『HEROES』を作ったときには、ヨシダの写真の美しさを印刷で表現するため、社運をかけた融資を元手に国宝などの美術印刷で知られる京都のサンエムカラーという会社に印刷を頼んだ。写真集を開いたときに真ん中で折り目が出ないよう職人が一冊ずつ手で仕上げるというこだわりだ。同書のデザインを担当したデザイナーの北原和規(43)は大塚をこう評する。 「世の中に対して斜めに構えず、自分が感動したことを素直に他の人に伝える。そういう姿勢が大塚の本作りにも共通していると思います」  創業して1年はヒット作に恵まれず、地元の銀行などから借りた4千万円の資金が1千万円程に減り「冷や汗をかいて起きた夜もあった」という。だが三宅やヨシダの本の成功によって、「誰も読んだことがない、しかし完成した本を見ればみんな『これが読みたかった』と感じる本を作る」「過去に出た本もずっと大切に売り続ける」という方針が定まり、ライツ社の躍進が始まった。4年前にフレーベル館から転職してきた編集の感応嘉奈子(46)が、ライツ社で働くなかで一番感じるのは「圧倒的なスピードで仕事が進むこと」だ。 仕事の行き帰りに子どもをママチャリで送迎するのも2人の日課だ。都会過ぎず、田舎でもない日本の「真ん中」にある明石市に暮らす中で感じる生活実感を、本の編集にも活かしている(写真/MIKIKO)   「編集でも営業でも、社員同士がつながるLINEで聞けば秒で返事が返ってくるので、仕事は本当にやりやすいです」と笑顔を見せる。  営業の髙野は自社の本を「爆弾を仕掛けるようなイメージ」で売っているという。 「書店に並びだした途端に爆発して、世の中を揺り動かす。そういう本だけを作って売りたいんですよね」  設立当初は取次との契約に奔走した。近年創業したベンチャー出版社の中には、本の取次を通さずに自社で直接書店と流通を行う会社もある。そのほうが資金の回収が早くコストが抑えられるからだ。だが、各書店と個別のやりとりが必要になるため、売れ始めた本をスピーディーに10万部以上に売り伸ばすことは難しい。 「ライツ社は最初からベストセラーを出すことを念頭に置いて創業したので、取次との契約はマストでした」(髙野) 飲み会で会社を超えた交流 出版界をもっと元気に  取次を通して自社の本を全国の書店に置いてもらい、さらに売り上げを伸ばすために本の広報活動もやれることはすべてやる。「ライツ社の本なら」と、重点的に売ってくれる書店も増えた。また、髙野の営業の真骨頂は「飲み会」にある。書店経営者や店長、出版社の取締役など、本に関わる人たちに声をかけ、頻繁に飲み会を開く。出版社や書店に勤める人々の会社を超えた交流を促したいという思いに加えて、「自社の本を売るだけでなく、出版界全体がもっと元気に盛り上がってほしい」と心から願っているからだ。 「僕は人生の節目節目で悩んだときに本を読み、本に助けられてここまで生きてきました。本は他の商品と違い、人生を良い方向に変える力があります。誰かの救いになるかもしれない本を届けるこの仕事は、天職です」(髙野)  あらゆる情報がスマホから無料で瞬時に手に入る時代に、なぜ人は紙の本を読むのか。大塚は「本って『個人の思い』と『社会』をつなげる、めっちゃシンプルで、ある意味便利で簡単な方法だと思うんです」と語る。情報が勝手に流れてくるWEBのニュースやSNSとは違い、書店に「置かれている」本は、自分が「買う」という能動的な行為で初めて触れることができる。 「だからこそ読み手に生まれる衝撃や変化ってすごいものだと思うんです」(大塚)  2人が本を愛し、仕事とするのは、きっと本こそが最も人の心の奥深くまで届くメディアだからなのだろう。書く力を信じてまっすぐに、ライツ社の本はこれからも世を照らしていく。 (文中敬称略)(文・大越裕) ※AERA 2024年11月25日号  
空き地に響く「ユーココール」 ガザで心身が疲弊していた私に元気をくれたのは現地の子どもたちだった
空き地に響く「ユーココール」 ガザで心身が疲弊していた私に元気をくれたのは現地の子どもたちだった イスラエルからの爆撃から避難していた子どもたちと、持参したペンを使ってお絵描きする国境なき医師団の中嶋優子医師(左)=2023年11月29日(写真 国境なき医師団提供)    昨年10月7日、イスラム組織ハマスによる攻撃への報復として、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が始まって1年。いまも攻撃は続き、これまでに4万人を超える犠牲者が出ている。さらに、食糧不足や衛生面の悪化など人びとの生活状況は深刻だ。昨年10月の攻撃後に届いた派遣要請に応じ、11~12月にガザに入った国境なき医師団(MSF)日本の会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんは、帰任後も取材や講演等で現地の状況を証言し、停戦を訴え続けている。当時の日記をもとに、全10回の連載で現地の状況を伝える。 * * *  イスラエルとイスラム組織ハマスは11月24日から4日間の停戦に入った(その後2回延長し、実際の停戦期間は7日間)。ガザに入ってからずっと聞こえていたドローンの「ブーン」という不気味な音や、昼夜関係なく響きわたる爆撃音がなくなった。すっかり音に慣れてしまっていたので、静けさが新鮮に感じた。 ----- 《11月24日の日記から》  今日からcease-fire(停戦)!  朝すごい子どもたちの声がした。朝ちょっとミーティングしてから病院にいった。街中はすごい混んでて少し平和が戻ってきてなんか活気がある。  病院は住人(※避難者が集まって寝泊まりしていた)が引き払ったからかいつもよりだいぶ空いてた。それでも混んでたけど。 (略)  今夜はドローンの音がしない! -----    病院に爆撃による重傷者がどっと押し寄せる「mass casualty」はなく、停戦初日は病院も落ち着いていたが、2日目以降、普段と違う種類の患者さんが増えた。受傷後数週間経った重傷患者さん、慢性疾患の悪化、透析患者さん、などなどが北部の機能しなくなってしまった大病院のシファ病院及びインドネシア病院から運ばれてきた。それまでは受診や転院搬送が必要でも、移動中にいつ攻撃を受けるかわからず、危なくて移動が出来なかった人たちがやっと移動できるようになったからだ。あっという間にベッドが足りなくなり、患者さんは廊下まであふれていた。意外とこの時の方がベッドの不足が深刻になり、病院は史上初めて「これ以上患者さんを受け入れ出来ません」という宣言を出した。そうは言っても機能している病院は少なく、何の効力もないのだけど。この状態で戦闘再開したらどうなってしまうのだろう、と思った。  病院側は駐車場にテント等を大急ぎで増設し始めていたが、外のテントでは出来る医療行為は限られている。停戦中は複数の組織からの支援物資が届いたが、ランダムな医療物資がごっちゃになって届いて整理するのが大変だった。必要ではない医療物資が届いたり、必要な医療物資が依然として届かなかったりした。こういった状況――医療支援物資が複数組織から届くものの、本当に必要なものが届かず、使えない医療資材が倉庫にほこりを被りながらたまっていく状況は他にもあった。もう少しコーディネート、統制が取れると良いのだが……、と前回の赴任地でも思ったが複数の組織間で、戦渦ではなかなかそこまで送る方も受け取る方も手が回らないのだろう。 停戦の初日、ナセル病院に届いた支援物資=2023年11月24日(写真 国境なき医師団提供)   ----- 《11月27日の日記から》  昨日は風邪がひどくて超早めに寝た。寝袋二重にして寝たけど結構暖かかった。  今日はER(救急救命室)が思ったより混んでる……と思ったらadmission hold(入院待機)の患者さんばかり。昨夜北部からたくさん転院で来たらしい。でもどこにも行くとこなくて蘇生室までベッド待ちの患者さんが……敗血症、血胸、大腿骨骨折、心不全……などadmission holdの患者さんばっかりだった。ドクターがあまり来なかった。  でも頑張ってERに居座ってみた。もう新しい患者さんを診るところがない。  病院の横っちょでテントを作り始めてた。どうやって(病院の)スペースとベッドを増やすか。  足が痛かったおじさんを放射線科に連れていって放射線技師数人でエコーして、血流ないということで別の病院に転送になった。  なんかユーウツだ。今日は水も出ないし。 -----    この頃は冬に向けてだんだんと寒くなってきており、栄養状態も悪かったし、気持ちも落ち込んでいたので身も心も調子を崩していた。そんなときに元気をくれたのは現地の子どもたちだった。   ----- 《11月28日の日記から》  昨夜も鼻づまりつらかった。水出ないしつらい。  朝とぼとぼオフィスに行こうとしたら子どもたちに見つかってかこまれてハグされて、たき火のところに連れていかれた。元気なかったのがすごい元気出た。 -----    私たちが寝泊まりしている建物の向かい、病院に行く毎朝の集合場所の前の家に複数の大家族が避難していた。その横にちょっとした空き地があってそこで大家族は毎朝焚き火をして暖をとっていた。おじいさん、おばあさん、親御さんたちとたくさんの子どもたち。ガザ地区の学校は全部避難所と化していたので子どもたちは学校に行けずに暇を持て余しておりいつもその空き地で遊んでいた。攻撃が始まってやってきた多国籍のMSF チームは子どもたちにとって大きな関心だった。もともとそこの大家族、子どもたちの輪に引き込んでくれたのはMSFの50代のフランス人男性の整形外科医。他のチームメイトは通り過ぎて、手を振ったりはするけど空き地の中までは入っていったりはしなかった。MSF チームで毎日向かいの空き地の中に行って交流できていたのはその整形外科医と私だけだった。 宿舎近くで避難生活を送る子どもたちと遊ぶ国境なき医師団の中嶋優子医師(右)=2023年11月25日(写真 国境なき医師団提供)    私がちょっとしたシールやお絵かき帳、折り紙、ペンなどを持っていたことや、私が今まで見たことのないアジア人で直毛なのも珍しいらしく、女の子たちには髪の毛を触られまくっていた。3、4日に1回しかシャンプーできていなかった私の髪の毛は汚れた子どもの手で触られまくりますます汚い状態になっていたと思う。子どもたちは学校に行けなくなってしまっているので知的刺激に飢えていたのかなと思う。学校で習った英語での自己紹介やアルファベットの歌などなどみんな自分たちの習ったことを誇らしげに披露してくれた。スマホで写真や動画を撮られるのが大好きなおしゃまな女の子たちも多かった。当たり前だけど日本やアメリカで見る子どもたちと全く雰囲気が同じなのだ。私と整形外科医がいつも「わーすごーい!」と子どもたちを褒めると子どもたちは満足げだった。  こうやって毎朝、病院に行く前と帰ってきてから子どもたちと交流をして仲良くなっていった。  ただ、精神的に凹んでいて今日はそんなエネルギーがないかも……という日は、子どもたちとの交流を正直避けようとしたこともあった。病院に行くのにはいつもの空き地の前を通らないと行けないのだが子どもたちに見つからないようにこっそり通り過ぎようとしても遠くからでもすぐにみつかってしまい、大勢で笑顔で駆け寄ってきて空き地に引きずり込まれたりした。「ユーコ!ユーコ!(ヨーコに聞こえる)」と大勢でユーココールしてくれた。嬉しいような、困ったような複雑な気持ちだった。でも子どもたちと触れ合うと、元気が出た。それでまた1日がんばれた。日が経つにつれてこの紛争のひどさへの絶望感も大きくなり、自分も憔悴して元気がない時も多くなっていったので、子どもたちが私の元気の源として欠かせない存在となっていた。  ※AERAオンライン限定記事     中嶋優子(なかじま・ゆうこ) 東京都出身。東京都立国際高校、札幌医科大学卒業。日本と米国の医師免許を持つ。日本で麻酔科医として勤務の後2010年に渡米、救急医療の研修を開始。2014年に米国救急専門医取得、2017年には日本人として初めて米国プレホスピタル・災害医療専門医を取得。国境なき医師団には2009年に登録。2010年に初めての海外派遣でナイジェリアで活動し、その後もパキスタン、シリア、南スーダン、イエメン、シリア、イラクで活動。2023年11~12月にかけてパレスチナ自治区ガザ地区で活動した。2017年より米アトランタ・エモリー大学救急部の助教授を務め、24年9月からは准教授職に。
「いつか使う」「いつか着る」で家の中はパンパン 片づけたら暮らしやすくなって体重も減った
「いつか使う」「いつか着る」で家の中はパンパン 片づけたら暮らしやすくなって体重も減った キッチンの棚はお皿やストック品でギュウギュウでした/ビフォー    5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.84 母親の介護をきっかけに暮らしをアップデート 夫と二人暮らし/保育士  人生には、進学や就職、結婚、子どもの誕生など、身の回りの環境がガラリと変わるようなことが起こります。そのたびに自分や家族の生活も変わるので、家の中もあわせて見直すことが必要です。 進学や就職などはある程度予測できて準備もできますが、中には予期せぬタイミングで訪れることがあります。例えば、介護。  息子が独立し、夫と二人で暮らしている恭さんは、母親の病気がわかって通いの介護が始まりました。フルタイムだった仕事を、柔軟に働けるように時間を短く調整。月に1回ほど、遠方にある実家に3~4日滞在する生活が2年ほど続きました。  この間、自分の家のことはいろいろと後回しになり、少しずつ暮らしにくさを感じるように。 「それまでは、片づけはモノを棚とかにしっかり収めていればいいと思っていました。実際、家の中のモノは多くなくて、どこに何があるかをちゃんと把握できていたんです」  ところが、いつからか恭さんは家の中のモノが管理しきれなくなってしまいました。 「あれ、なんでこれがここにあるの?」「同じようなモノがいっぱいある……」  それでも片づけに費やせるほどの時間の余裕はありません。仕事と介護に割く労力が大きくなり、“相方さん”と呼ぶ夫にすべての家事を任せることもしばしば。 「相方さんは、家が散らかり始めていることについて特に何も言いませんでした。私だけが気にしていたのかもしれないですけど……」  通いの介護生活が2年ほど続いた頃、母親が他界します。遺品を整理しているときに、恭さんはふと不安に駆られました。 量をグッと減らしてワンアクションで取り出しやすい配置に/アフター   「けっこういろいろなモノを捨てているけれど、これって自分のときも息子に負担がかかるのかな?」  改めて自分の家の中を見回してみると、「いつか使うだろう」「いつか着るだろう」という“いつか”のモノばかり。気づけば自分の環境は変わっていたのに、必要ないモノばかりに囲まれていました。  介護がなくなって時間はできたので、片づけをしようと思いましたがどうにも進みません。 「友だちが気を使ってくれて、食事や旅行、ライブなどに誘ってくれたんです。そういう楽しい方に流されてしまいました」  片づけたい気持ちがあった恭さんの手元には、一向に実践されない片づけ本が積み上がっていきます。これではいけないと思っていたところ、“家庭力アッププロジェクト®”を見つけました。 「片づけで暮らしをアップデートできるという話にハッとしました。仕事では研修を受けたりしてアップデートをするのに、暮らしもできるなんて思いもしなかった!」  片づけ始めて感じたのは、自分の決断力のなさ。“いる・いらない”を決めるのが苦手だったので、モノがたまっていってしまったのです。また、買い物で「これとこれ、どっちにしようかな」と迷ったときに二つとも買ってしまうということもしばしば。  プロジェクトで一緒に片づけを始めた仲間の様子を見て、「あ、これもいらないな」と気づくことができると、決断力もついてきました。 そうはいっても、仕事をしている恭さんは片づけばかりしていられません。活用したのは、スキマ時間です。 「仲間たちと一緒に朝10分間オンラインで片づけをする“朝活”をして、不用品をとりあえず出します。私は終わったらすぐに家を出て仕事をして、帰ってきてから“夕活”の時間を作りました。朝出しておいた不用品を、ゴミとして手放すモノとリサイクルでお店に持っていくモノに分けて、お店に持っていくモノは車に乗せる、というところまでその日のうちに終わらせるようにしました」  朝あったはずの不用品の山が、夜帰ってきたらなくなっていることに、「相方さんもビックリしていました」とのこと。  家の中のモノが減ると、パンパンに詰め込まれていた棚がスッキリしてきました。 床に置いているモノが多くてゴチャゴチャしているリビングの一角/ビフォー   「モノを入れる場所だからとたくさん入れていましたが、空間ができるとなんだかホッとしたんです」  空間の余裕とともに、恭さんの心にも余裕が生まれてきました。 「今まで、ごはんを自分のために作るのが面倒だったんです。息子が家を出たときに『子どものために作らなくていいのか』と、一旦放心状態になって……。そこからは相方さんのごはんを作るついでに自分も食べるという感じでした。でも、今は自分の健康がありがたくなって、『おいしい!』ということは活力なんだなと感じています」  恭さんは片づけで運動量と代謝がアップしたのか、体重が5キロも落ちたそう。片づけが終わった今もキープしています。 「体がすごく軽くなりました! 動きやすくて調子もいい。もともとヨガをやっていて、片づけ終わってから筋トレも追加で始めました」  これまで家族に向けられてきた意識が、自分にも向けられるようになってきました。 床置きがなくなり空間にも余裕ができました/アフター   「片づけたら、こんなにキラキラした未来が待っていたんだなってうれしくて! これまで家族のために動くことが多くて、自分のことまで考えられませんでした。仕事柄、お母さんと接することが多いですが、『ママがご機嫌でいることが、家にとっても、家族にとっても、いいことだよ』ということを自分なりに伝えていきたいですね」  恭さんの片づけを見て、相方さんも少しずつ自分のモノを片づけ始めています。犬とウサギとともに暮らす恭さんたちの生活は、まだまだブラッシュアップして輝かしい未来に向かっていきそうですね。 ※AERAオンライン限定記事
信子さま「皇族費は月10万円しか受け取っていない」と訴えていたことも 彬子さまとの母娘の溝と三笠宮家「新当主」の行方
信子さま「皇族費は月10万円しか受け取っていない」と訴えていたことも 彬子さまとの母娘の溝と三笠宮家「新当主」の行方 2024年の秋の園遊会で、「三笠山」に並ぶ皇族方=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA    101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さま。一般の納棺にあたる儀式「お舟入(ふないり)」が11月16日、東京・元赤坂の赤坂御用地にある三笠宮邸で営まれた。26日に文京区の豊島岡墓地で執り行われる、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」で、宮内庁は孫の彬子さまが喪主を務めると発表した。その一方、百合子さまの長男寛仁さまや三笠宮崇仁さまなど、これまでの三笠宮家の皇族の死去に伴う一連の儀式に参列していないのが、寛仁親王妃の信子さまだ。そこには長年の確執があり、三笠宮家の「新当主」問題にも影響しそうだ。 *   *   *  16日の「お舟入(ふないり)」の儀式は、百合子さまが長くお住まいだった三笠宮邸で営まれた。孫で故・寛仁親王の長女の彬子さまと次女の瑶子さま、高円宮妃久子さまと長女の承子さまら親族が見守る中、百合子さまのご遺体がひつぎに移された。  続いてご遺体に別れを告げる「拝訣(はいけつ)」が営まれた。天皇、皇后両陛下の長女愛子さま、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さま、常陸宮妃華子さまらが加わり、お別れの拝礼をした。  三笠宮家の行事として営まれた一連の儀式には、参列していない皇室メンバーもいる。  慣例により参列しない天皇陛下と皇后雅子さま、そして上皇ご夫妻は、前日に引き続き16日も儀式の前に弔問に訪れた。  そして、三笠宮家の一員であるにもかかわらず、参列していなかったのが、百合子さまの長男の妻である寛仁親王妃の信子さまだ。    信子さまは前日の15日、弔問のために車で赤坂御用地に入った。信子さまだけが外から車で訪れたのは、信子さまは2009年以降、家族と「別居」しているためだ。  百合子さまの容態が悪化したことで、孫の彬子さまは訪問先の英国から帰国。高円宮妃の久子さまも奈良県や米国訪問を中止するなどして、入院先の聖路加国際病院へ駆けつけていた。 「しかし、信子さまとご家族の断絶は続いたままで、百合子さまのお見舞いに訪れた姿は確認されていません。15日も赤坂御用地を車で訪れていますが、今回も弔問はできなかったという話も聞こえてきます」(事情に詳しい人物)   信子さま(当時の麻生信子さん)との婚約会見では寛仁さまが「7年前に結婚を僕が申し込んだが、若すぎると反対された。7年目にして実現した」と話し、7年越しのプロポーズが話題に=1980年4月、宮内庁   「宮家へ戻るとストレス性ぜんそくが再発」  信子さまと家族の溝は、なぜ生じたのか。  信子さまは、明治の元勲である大久保利通を親戚に持ち、九州財界を代表する名家に生まれ育った。兄は麻生太郎元総理だ。  1980年11月に“ヒゲの殿下”と親しまれた寛仁さまと結婚。当時、「長年好意を寄せ続けた寛仁さまが、7年越しの恋を実らせた」と、熱愛ぶりが話題になった。だが、十数年で破綻することになった。  信子さまは2004年以降、気管支ぜんそくによる入退院を繰り返し、軽井沢での療養生活に。09年秋には宮内庁が「宮邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発する恐れがある」という主治医の見解を公表。信子さまは入院先から宮邸に戻らず、宮内庁分庁舎として使われていた旧宮内庁長官公邸で暮らし、寛仁親王家では寛仁さまと彬子さま、瑶子さまの3人が生活するようになった。    複数の関係者によると、寛仁さまは長い闘病の末、12年に亡くなったが、それまでの数年、信子さまが病院へ見舞いに訪れることはなかった。息を引き取る直前にようやく足を運んだが、すでに寛仁さまは意識がない状態。まだ意思疎通できたころの寛仁さまの意向や周りの反対から、信子さまは病室に入れなかったともいわれる。  そして寛仁さまの葬儀の喪主は、彬子さまが務めた。妃の信子さまではなく娘が喪主となった理由について、宮内庁は当時、筆者の取材に「寛仁殿下のご意向」と答えている。   「母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」  その後の寛仁親王家は、混乱が続いた。  寛仁さまが亡くなって1年を経ても当主が決まらず、寛仁親王家は消滅。母娘3方は百合子さまを当主とする三笠宮家に合流した。   2007年秋の園遊会に臨んだ寛仁さまと瑶子さま。寛仁さまは、留学で学んだ英国ファッションの著書も出されており、シルクハットを手にダンディな装いがお似合い=2007年10月、赤坂御用地、JMPA    寛仁親王家をめぐる混乱については、彬子さまが「月刊文藝春秋」(2015年7月号)に載せた手記「彬子女王 特別手記 母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」でも触れている。   寛仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない。父が亡くなってからも、何度も「話し合いを」と申し出たが、代理人を通じて拒否する旨が伝えられるだけであった。    彬子さまは信子さまについて、公務に復帰するのであれば、三笠宮両殿下にお詫びとご報告をしてほしい、ともつづっていた。  16年の三笠宮崇仁さまの葬儀でも、高齢の百合子さまに代わり、彬子さまが喪主代理を務めた。信子さまは、三笠宮さまが亡くなる1カ月ほど前に、入院中の聖路加国際病院を訪ねたが、このときも面会はできていない。もっとも、この一件も「面会できない状況だとご存じのはず」と、三笠宮家側は不信感を募らせたようだ。   信子さま「月10万円の皇族費しか…」と訴え 24年秋の園遊会に臨んだ信子さま。帯からのぞく翡翠のような玉飾りは、おそらくご愛用の懐中時計=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA    この年の夏には、信子さまと三笠宮家の間で、あるトラブルも起きていた。  彬子さまも妹の瑤子さまも不在中だった旧寛仁親王邸の三笠宮東邸を、信子さまが訪問。弁護士と鍵の専門業者を連れてきていた。  宮邸の職員は信子さまに「扉は開けられません」と繰り返したが、鍵の専門業者が通用口の鍵を開けて信子さまは邸内に入り、荷物をまとめて宮邸をあとにしたのだ。    事情を知る人物によれば、この「騒動」で信子さまはご自身の「正当性」を主張されていたようだ。  当時、信子さまは、ご自身に年間1525万円が支給されている皇族費について「月額10万円しか受け取っていない」と訴えており、日常の費用は三笠宮東邸に請求していたという。 「妃殿下は『月額10万円では、新しい物品をそろえることができない。自分の荷物を取るために鍵を開けざるを得なかった』と正当性を主張されていたようです」  宮内庁も、長年にわたる宮家内の愛憎劇に頭を悩ませているようだという。   2024年の秋の園遊会に臨んだ彬子さま。日本美術の研究者として活躍し、英国留学生活をつづったエッセイ「赤と青のガウン」は異例のベストセラーとなっている=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA   妻以外の女性皇族は「当主」になれないのか  宮殿行事や皇室行事で、隣に並ぶ信子さまと彬子さま、瑤子さまが、互いに目を合わせたり、母娘でほほ笑ましく談笑したりする光景を目にしたという話は、あまり聞こえてこないようだ。  そしてこれから問題となるのは、三笠宮家の「当主」問題だ。    戦後の皇室において、宮家の男性皇族が亡くなった後は、故・秩父宮妃勢津子さま、故・高松宮妃喜久子さま、高円宮妃久子さま、そして三笠宮家では宮妃の百合子さまが当主を務めてこられ、妻である宮妃以外の女性皇族がなった例はない。  そもそも「当主」はどのように決まるのか。  元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、「当主」について法律で定められた規定はないと話す。  ただし、生活には資金が必要で、それぞれの皇族には、「皇室経済法」に基づいて、品位保持のための「皇族費」が国から支給されている。同法には「独立の生計を営む親王」を基準に、妻は2分の1、子どもは減額されるとある。 「つまり、その家の生計の中心になる皇族がいわゆる『当主』です。それぞれの皇族費の額はさておき、まずはご家族と宮内庁が話し合い、どなたが『当主』になるかの合意が必要です。その結果を天皇陛下にご報告し、了承が得られれば、内閣総理大臣や衆参両院議長ら8人で構成される皇室経済会議に諮ることになります。そして、皇室経済会議で『独立の生計を営む皇族』として認定されれば、その皇族はいわゆる宮家の『当主』となります」  皇族の身位によって支給される皇族費の額面の増減はあるが、「独立の生計を営む皇族」については、同法6条2項の「皇族が初めて独立の生計を営むことの認定は、皇室経済会議の議を経ることを要する」という規定があるのみだ。   寛仁親王妃信子さまの療養先となっている宮内庁分庁舎。下の1棟が旧宮内庁長官公邸で、もう1棟は旧侍従長公邸。25年度から始まる改修工事には13億円が計上されている=2009年、東京都千代田区三番町   13億円で改修する信子さまのお住まい  では、誰が三笠宮家の「新当主」となるのか。  もともと三笠宮家については、長男の寛仁さまが継承することを想定し、寛仁さまは宮号を受けないまま寛仁親王家として独立した生計を営んできた経緯がある。 「これまでの慣例に従えば、寛仁親王妃の信子妃殿下ですが、寛仁親王を含め三笠宮家の皇族のお見舞いにも葬儀に伴う儀式にも参列できていらっしゃらない。そうした方に当主が務まるのかといえば、難しいでしょう」(前出の宮家の事情に詳しい人物)  親王妃以外の女性皇族が「当主」になった例はないが、法律上は内親王、女王も「独立の生計を営む」皇族になることが想定されている、と山下さんは分析する。となれば、信子さま以外にもこれまで親王が亡くなった宮家を支えてきた彬子さま、瑶子さまのいずれにも可能性としてはあり得る、という。 24年秋の園遊会に臨んだ瑶子さま。金髪ピンクメッシュのまとめ髪と、「裏葉柳(うらはやなぎ)」のやさしい地色の訪問着が品良く調和している=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA    また、山下さんは「三笠宮家」とは別の宮家ができる可能性もある、と話す。  というのも三笠宮家の3方の女性皇族は、3つの「宮邸」をお持ちだ。 「故・百合子妃殿下がお住まいだった三笠宮邸、旧寛仁親王邸である三笠宮東邸、そして信子妃殿下がお住まいの、旧長官・侍従長公邸だった宮内庁分庁舎の3つです」  そして信子さまがお住まいの宮内庁分庁舎は、バリアフリーなどの改修工事が予定されており、宮内庁は25年度の概算要求に約13億円の予算を計上している。 「多額の国費をかける改修工事が意味するのは、宮内庁も含めて周囲は信子妃殿下の終のお住まいと考えてのことでしょう。信子妃殿下、彬子女王殿下、瑶子女王殿下がそれぞれ『独立の生計を営む皇族』として、別々の宮家の当主としてお暮しになる可能性もあると思っています」(山下さん)    26日には、豊島岡墓地で百合子さまの本葬にあたる「斂葬の儀」が執り行われる。果たして信子さまは参列されるのか。そして、三笠宮家をめぐる「新当主」の行方が注目される。 (AERA dot.編集部・永井貴子)    
「寿命を決める臓器=腎臓」機能低下を示す兆候5つ  ダメージを受けてもほとんど症状が表れない
「寿命を決める臓器=腎臓」機能低下を示す兆候5つ  ダメージを受けてもほとんど症状が表れない 1個の腎臓に、1分間で約1リットルの血液が流れ込んでいるという(写真:gettyimages)   「寿命を決める臓器」として、昨今の医療現場で注目を集めている腎臓は、人間が生きるうえで欠かせない機能をコントロールするという役割を担っている一方で、「沈黙の臓器」とも呼ばれ、ダメージを受けてもほとんど症状が表れることがないと、医学博士で腎臓専門医の髙取優二氏はいいます。  そんな腎臓の状態を知る5つのチェックポイントについて、髙取氏の著書『腎機能を自力で強くする 弱った腎臓のメンテナンス法』から、一部を抜粋・編集して紹介します。 「1分間に約1リットル」の血液が流れ込む腎臓  突然ですが、腎臓に関してひとつ質問をします。もし腎臓がなくなったとしたら、どうなると思いますか?  では、その答えの一例をあげてみます。 ●体中に水分がたまり、むくみやすくなってしまう ●高血圧になり、心筋梗塞や脳梗塞などになりやすくなる ●骨がもろくなり、骨折しやすくなってしまう ●ほかの臓器の機能が低下してしまう  もちろん、これだけではありませんが(そもそも、腎臓の機能がまったく働かない場合、10日~2週間ほどで命の保証がなくなってしまうのですが)、腎臓が全身に深く関わっている臓器だということがおわかりいただけるかと思います。  昨今、「腎臓が寿命を決める」といわれていることをご存知でしょうか。それは腎臓が人間が生きるうえで欠かせない機能をコントロールするという役割を担っているからです。  ここから腎臓がいかに私たちにとって大切な存在であるのか、詳しくお話ししていきましょう。  そんな大切な腎臓が体のどこにあるかというと、体の背中側の腰の上部に背骨をはさむように左右にひとつずつ位置しています(下のイラストを見てください)。 (出所:『腎機能を自力で強くする 弱った腎臓のメンテナンス法』より)    腎臓1個の重さは約150gで、握りこぶし程度の大きさしかありませんが、そこに、心臓から出た血液のおよそ4分の1が流れ込んでいます。これだけだとピンとこないかもしれませんが、体重の200分の1以下の重さの腎臓に、1分間に約1リットルの血液と聞くと、かなりの負荷がかかっていることがおわかりになると思います。  これだけ大量の血液が流れ込んできている理由は、腎臓が非常に重要な役割を果たしているからです。 「縁の下の力持ち」意外にスゴい腎臓の"底力"  生きていくために必要不可欠な腎臓の働きのひとつが、「ホメオスタシス(生体恒常性)」を保つということです。少し言葉が難しいですが、簡単に言うと、環境に左右されずに体内を一定に保つしくみです。  私たちが生活している環境はつねに一定ではありません。雨が降ったり、暑くなったり、寒くなったり、ジメジメしたり、乾燥したりと、刻々と変わっていきます。  そして、その変化に左右されることなく体の内部がいつも一定に保たれていなくては私たちは生きていくことはできませんよね。たとえば、暑さや寒さなどに影響されて体温が激しく変動したら、体は機能停止状態に陥ってしまいます。このホメオスタシスを維持するうえで、とくに重要な働きをする臓器が腎臓です。  具体的には、がぶがぶと大量に水を飲んだときには尿を増やし、逆に飲めない状況に陥ったときには尿を減らすといった調整を行っているのです。  また血管、細胞、神経、筋肉などの機能の調整に欠かせない、体液に含まれている電解質(ナトリウムイオンやカリウムイオンなど)にも目を光らせて、体にとって不必要なぶんは尿として排泄し、必要なぶんは体に戻しています。こうして、体液はちょうどよい量と濃度になるように調整されているのです。  もしも腎臓がなくなったら、体の中はゴミだらけになるだけではなく、ホメオスタシスも維持できなくなって、脳や心臓などの全身の臓器が本来の機能を果たせなくなってしまいます。これが、「腎臓が寿命を決める」といわれている所以なのです。  そんな腎臓はとても複雑な構造をしています。順番にひとつずつみていきましょう。  心臓から送り込まれた血液は、毛細血管(細い血管)の塊でできている「糸球体」という場所で、必要な赤血球やタンパク質などと、不必要なゴミなどとにふるい分けされます。ゴミなどを含んだ水分(原尿)を受け止めているのが、「ボウマン嚢」です。  原尿には、水分も含め、体にとって必要な物質がたくさん含まれています。こうした物質を「尿細管」が再吸収しています。  このように血液のろ過と再吸収を365日、24時間休まず行っているため、血液に糖がたくさん含まれていたり、血圧が高くなったりすると、糸球体や尿細管はダメージを受けてしまいます。  ただ、「沈黙の臓器」と呼ばれている腎臓は、ダメージを受けてもほとんど症状が表れることはありません。腸のように「おなかが痛い」といった直接的なサインを出さないのです。そのため、本人が気づかない間に、ジワジワと機能低下が進行していく可能性が高いのです。  いまの腎臓の状態を知るには、次のような体の変化を確かめるといいでしょう。 あなたの腎臓は大丈夫? 5つのチェックポイント ① 突然、尿の量が減ってしまった 「急性腎障害」といって、尿細管に激しい炎症が起こっている可能性があります。急性腎障害は薬剤が引き起こすケースが多いのですが、サプリメントや食品で炎症が起こることもあります。  尿の量を推し量る目安としては、トイレの回数があります。一般的に正常であれば1日当たり5~7回といわれており、2回以下であると尿の量が少ないといえます。ただし、頻尿などは膀胱に問題があるときに発生することもあるので、トイレの回数だけで判断するのは早計です。  尿の量の減少に加えて、とても疲れやすくなり、ひどいむくみや食欲不振が表れた際には、すぐに腎臓内科や内科を受診してください。 ② 夜に尿意で目が覚める  子どもと大人とでは、尿の出方が違いますよね。赤ちゃんのときは尿の出をコントロールできないので、おむつをつけます。そして、幼い頃はおねしょをするときもありますが、成長するにつれてそれがなくなっていきます。  大人になれば、昼間は何度かトイレに行きますが、夜はほとんど行かなくなっているはずです。トイレに行かなくても済むのは、腎臓に夜間の排尿回数を減らして尿を濃縮する機能が備わっているからです。  それにもかかわらず、「トイレに行きたい」と尿意を覚えて夜中に何度も目を覚ますのは、腎臓の機能が落ちて、尿の濃縮力が低下しているからです。 ③ よく足がつる  眠っているときに、突然、足がビリビリと強く痛んでつることはありませんか? これは「こむら返り」とも呼ばれていますが、頻繁に起こる場合は、腎臓に不調をきたして体液のバランスが保たれなくなっている可能性があります。 「血圧」や「血糖値」の変化にも注意が必要 ④ 頭痛や首のこりに悩まされがちだ  血圧が高いときには、血管がギュッと収縮していて、血行障害が起こっています。そのために、頭痛や首のこりが発生しやすくなります。  さらに血圧の高い状態が続くと、全身の血管は高い圧力を受け続けることになり、次第に血管の内部が硬く、もろくなってしまう「動脈硬化」が起こります。当然、毛細血管という細い血管の集合体であり、たくさんの血液が送り込まれる腎臓の血管は、その影響を大きく受けてしまいます。高血圧気味で、さらに頭痛や首こりが続くようなら要注意です。 ⑤ 食後に強烈な眠気に襲われる  食事でとった炭水化物(糖)が消化吸収されるとブドウ糖に変換されて血液の中に放出されます。これが「血糖」で、その量を示すのが血糖値です。  食事をする前と後で血糖値が異なるのですが、食事をすると食べ物が消化吸収されて血中に糖が放出されるため血糖値は上昇します。しかし、食べたものによっては血糖値が急上昇した後、急降下を起こすことがあります。  この状態は「血糖値スパイク」と呼ばれ、血糖値が急降下するときに、強い眠気に襲われたり、動けなくなるほどのだるさを感じたりします。  この血糖値スパイクをくり返すことで血管は大きなダメージを受け、腎臓にも悪影響を及ぼします。そのため、食後に頻繁に強い眠気に襲われる方は、腎臓がダメージを受けている可能性があります。  ここであげた5つの症状のうち、「①突然、尿の量が減ってしまった」については、早急に治療が必要なケースが珍しくありません。ですから、放置せず、すぐに病院を受診してください。  残りの4つの症状については、これから生活習慣を改善することで、十分に対処できますので、ぜひ日常生活を見直してみてください。 腎臓は、意外と「タフな臓器」でもある  ここまで読んでいただき、腎臓に不安がある方には「やっぱりもうダメかもしれない」と思われる方もいらっしゃったかもしれません。しかし、そんな方にお伝えしたいのは「心配し過ぎないでください」ということです。  20~30代の頃の腎臓の機能を100%とした場合に、「10%が残っていたら、普通の生活を送るには十分です」と言われたら、驚かれるでしょうか。  じつは、腎臓は意外とタフです。たとえば、「生体腎移植」といって、ふたつある腎臓のうちのひとつを、親族から提供してもらう治療法があります。腎臓を提供した人(ドナー)は腎臓がひとつになりますが、機能はほぼ正常に保たれ、健康に暮らせています。  腎臓は生命を維持するうえで重要な役割を果たしていて、ほかの臓器よりも潜在能力は高いのです。年齢を重ねるとともに腎臓の機能は低下していくものの、もともと余力はあるので、本来であれば厳しい食事制限や服薬、透析などを行わずに、私たちは寿命をまっとうできます。  たとえ高齢になって、健康診断で腎臓の機能を示す数値が少々悪くなっていても、食生活や生活習慣を改善するなどして腎臓のメンテナンスを心がければ「もうダメだ」と悲観する必要はないということです。  ただし、糖尿病や高血圧、偏った食習慣などで腎臓を痛めてしまったら、若くても腎臓の機能は落ちてしまいます。私の元を訪れる患者さんたちの中には、まだ40代前半にもかかわらず糖尿病などの治療を怠って、腎臓が取り返しのつかないほどダメージを受けてしまい、「こんなことになるなんて、知らなかった」と後悔している人も少なくありません。  ほかに、感染症、薬剤などで腎臓の機能が急激に低下することもあります。タフで、滅多なことでは弱音を吐かない臓器だからこそ、日頃からちょっとした体の異変には敏感になる必要があります。少しでも異変を感じたらかかりつけ医などに相談するようにしてください。
片づけられない人は未来については思考停止状態の人が多い 片づけの専門家がアドバイスする考え方の変換
片づけられない人は未来については思考停止状態の人が多い 片づけの専門家がアドバイスする考え方の変換 捨てるモノはゴミではなく“成果物”だと西崎さん。ずっと捨てられなかった紙袋も成果物に  片づけられないと悩む人は多い。そんな片づけを習慣化することで部屋がきれいになるだけではなく、人生までも変わる――。そう提唱するのは、大人気のお片づけ習慣化コンサルタント、西崎彩智さん。片づけるには未来を考えることが大事とも。最新刊『人生が変わる片づけの習慣 片づけられなかった36人のビフォーアフター』(朝日新聞出版)から一部を抜粋する。 *  *  * ある男子高校生の悩み  最近は、学校などにも片づけの講座を依頼されてお話しすることがありますが、そのときにも片づけは自己選択の連続である、ということをお伝えします。  ある有名男子校でお話ししたときのことです。  講演終了後にある男子生徒が近づいてきて、「僕は今まで周りが決めたレールの上を歩いてきたんだと思います。だから、今将来の目標が見つからないのが悩みです」と言われてびっくりしました。親御さんにいろいろ指示される人生を送ってきて、あまり自分で選択する機会を与えられなかったのかもしれません。  でも、それを今、自分で気づいたのは素晴らしいことだと思ったので、それを伝えました。その生徒さんはもちろん、私たちだって遅すぎることはありません。気づいたときから、小さなことから、自分で決定していけばいいんだと思います。 なりたい未来を描こう  家の外では頑張っているけれど、家の中はぐちゃぐちゃ、という人は本当の自分を隠して生きています。こんな私はダメなんだとか、こんな汚い家に住んでいることをバレたくない、など自己肯定感も下がっていることが多いです。  けれど、片づけをしてどんどんモノを手放していくことで、「自分は本当はこんなことを考えていたんだ」とか「こんなことをやりたかったんだ」と薄皮が剝がれるように、本来の自分に気づく人が多いです。  思考の変化は行動の変化を生むので、最近夫とケンカしていないなとか、子どもを怒ることが減ったな、などの行動の変化から自分の思考の変化に気づく人もいます。  片づけに共通の正解はありません。  自分の正解を探すためには、自分自身がどうなりたいのか、という未来を描くことが大事になります。片づけるときにゴールを描かないと、自分は何のために片づけているのかわからなくなり、途中でやめてしまうのです。 ずっと取っておいたお祝い袋を整理すると、なんと中から現金が出てきた!  未来を描くと言ってもわからない、という方は、分けて考えてみればいいのです。 「家の全体像は? 時間の使い方は? お金の使い方は? 家族との関係性は? 自分の感情は?」などです。  目の前の仕事やタスクを優先し、頑張っているのにいつも不安な人は、子どもの将来は考えても自分の未来については完全に思考停止状態の人が多いです。  未来なんて何も浮かばない!という人もいるかもしれません。そういう人は「こんな生活は嫌だ」ということを考えていけばいいのです。その反対のことが「なりたい未来」になります。  未来が見えてくると、そこに必要なモノといらないモノを選別することができます。  モノに執着してどうしても捨てられない人は、今、あなたが捨てようとしているモノは「ゴミ」ではなく、「成果物」と考えて手放しましょう、とお伝えします。  ちょっとした思考の変換ですが、それだけでモノが捨てられなかった方が「今日はこれだけの成果物が出ました!」と嬉しそうに報告してくれるようになります。  自分がなりたい未来を描けたら、次は家族の未来も聞いてみます。  夫婦関係がギクシャクしてしまうと、「どう暮らしたい?」なんて聞きづらいものです。でも片づけの苦手な妻がキッチンをピカピカにしているのを見れば、夫も変化に気づき、協力してくれるでしょう。  すると、「夫がこんなふうに考えているなんて知らなかった」「実は子どもにとって使いにくい収納だった」といった意外な思いや、独りよがりな自分の考えに気づくことができます。  みんなが暮らしやすい家が作られると、家族のシナジーの効果によって「私だけが頑張らない」家庭に近づいていくのです。  家族と暮らしていても、一人暮らしでも、家は、自分がいちばん自分らしくいられて、自分自身をパワーチャージできる場所であるべきです。  そういう場所であれば、今日どんなに疲れていてもまた明日から頑張っていけるはずです。 ※西崎彩智著『人生が変わる片づけの習慣 片づけられなかった36人のビフォーアフター』より抜粋 【こちらも話題】 ゴミ箱を選ぶことさえ自信が持てない女性に片づけの専門家がアドバイス 片づけを習慣化するために大事なこととは? https://dot.asahi.com/articles/-/240842
女性の夫は「一人だけエッチな要求をしなかった」  お金の不安と「風俗」の達成感の間で揺れる思い
女性の夫は「一人だけエッチな要求をしなかった」 お金の不安と「風俗」の達成感の間で揺れる思い   女性と夫は仲良し。出会いはアダルトライブチャットだったという(撮影/インベカヲリ☆)  現代日本に生きる女性たちは、いま、何を考え、感じ、何と向き合っているのか――。インベカヲリ☆さんが出会った女性たちの近況とホンネに迫ります。 *   *   * 出会いはアダルトライブチャット 「夫は、アダルトライブチャットのお客さんでした」 インターネットが普及してから男女の出会いの場は大きく広がったが、地方都市出身である日葵さん(仮名/30代)の夫との出会いは、かなり変わっていた。  アダルトライブチャットとは、スマホやパソコンのWEBカメラを通して、男性客と性的な会話をしたり、服を脱いだりして生配信するサービスのことだ。日葵さんはそこで、性的サービスを提供するチャットレディとして働いていたのである。  引退して主婦となった今は、ナチュラルメイクで落ち着いた雰囲気だ。が、当時はアイドルのようなルックスを生かして、「少女っぽさ」を売りにしていたらしい。 お互いに「会いたいね」  とはいえ、直接対面する風俗店とは違い、ネットでつながるライブチャットは、物理的な距離がある。どうやって特別な関係に発展したのだろう。 「夫は最初から性欲を感じさせない人で、たくさんいるお客さんの中で、一人だけエッチな要求をしてこなかったんです。それがうれしかったんですね」  何度もアクセスしてきては会話だけを楽しんでいる彼に、気が付くと日葵さんは、個人的な話や、仕事の愚痴などを話すようになっていた。お互い「会いたいね」と言い合うようになり、WEBカメラ越しに連絡先を聞くと、関西に住む彼の元まで会いにいったという。その後、とんとん拍子で結婚し、数年が経つ。 「今も仲良しです」  そう断言する日葵さんだが、「エッチな要求がない」のは、今も変わらないようだ。 セックスはしない 「夫は残業が多いけれど、いつも深夜まで待って一緒にご飯を食べます。一緒に布団に入って、手をつないだりハグしたりキスしたりするけれど、セックスはしない。夫は、もともと性欲が薄いんです。  私は体を求められないほうが愛情を感じるんですね。たぶん風俗で接客していたせいだと思うんですけど、エッチなことイコール、性的な道具として扱われている感じがしてしまって、ないほうが人として見てくれている気がしてうれしい。でも、そう思うっておかしいですよね?」  だが、それゆえに、相性がバッチリ合ったということだ。  なぜそもそも風俗業界に足を踏み入れたのだろう。 大卒で正社員になったのに、手取りは13万円。生活はギリギリ、結婚式にも行けなかった(撮影/インベカヲリ☆) 大卒正社員で手取り13万円 「大学を卒業して福祉の仕事に就いたとき、正社員で手取り13万円だったんです。私は一人暮らしだったので、自炊しても、本当にギリギリ生きていられるぐらいのご飯しか食べられなかった。お金に余裕がないから遊びの誘いも断っていたし、結婚式に呼ばれてもご祝儀が用意できないから欠席したこともあって、友だちはかなり減りました」  そんなとき、同僚の女性からランチに誘われた。パスタ屋に入ってメニューを見た日葵さんは、「こんな金額は払えない」と驚いた。どうして同じ給料のはずなのに、お金を持っているのだろうと不思議に思って聞いたところ、副業で風俗の仕事をしていることを教えられたという。 「実は私も、お金がなさすぎて、以前から出会い系の掲示板でパパ活をしたことはあったんです。彼女の話を聞いて、お店で働くほうが安全で効率的だなと思って始めました」 結婚後、生活は安定しているが  仕事終わりに風俗店へ出勤するようになると、すぐに人並みの生活が送れるようになった。その後、コロナ禍で対面接客が下火になり、ライブチャットへ移行したという流れだった。  結婚後は、夫の収入でやりくりしているため、生活は安定している。それでも日葵さんは、夫に内緒で風俗で働いていた時期があるという。 「別に生活が苦しいわけではないんですけど、『稼がなきゃ』みたいな強迫観念がずっとあるんですよね」  それは、自分自身でも説明のつかない、漠然としたお金の不安だという。 「本当にカツカツな生活をしていたから、風俗でお金がガンガン入るようになったとき、今のうちに貯めなきゃって気持ちになったんです。何があるかわからないし、若くて稼げるうちに稼がなきゃみたいな。どうしてなのかわからないけど、今もその気持ちが消えないんです」 心の安定のためのパパ活  現在は、風俗店こそ辞めたものの、やはり夫に内緒で男性客の1人とつながり、月一回の契約でパパ活をしているらしい。 「一応、収入源をキープして風俗をやめました。お金の不安を解消するために、保険をかけたんですね。お金はいくらあっても不安。安心できたことはありません」  つまり、心の安定のためのパパ活ということだ。  夫の収入だけでは安心材料にならないのだろうか。 欲しいものなくても「稼がなきゃ」 「なんなんですかね? お金遣いが荒いわけではないんですよ。服はしまむらでいいし、下着はユニクロでいい。生活費が足りなくなったら、夫に『ちょうだい』って言えば、たぶん貰えるんですよ。でも、なぜか言いづらい。で、自分の貯金が100万円を切ったりするとかなり焦って、欲しいものもないのに『稼がなきゃ』って気持ちになる。お金に対するコンプレックスなのかな?」  その感情は、子ども時代の体験に由来するようだ。 「家がずっと貧乏で、自分のものを買ってもらえたことがほとんどないんですよ。必要なものは全部近所のお姉さんからのお下がりで、それも10歳以上離れていたから、どれも昭和テイスト。誰も持っていないような筆箱とか、古いデザインの服を恥ずかしい気持ちで着る、みたいな。流行りのものを持っている子がうらやましかったけど、見ているだけで、親には言えない関係性だったんです。幼少期のトラウマというか、植え付けですかね。今も貧乏性は治らないし、人におねだりすることができないんです」 夫の収入は知らない  そのため、貯金が減ると不安になり、自分でなんとかしなきゃという気持ちになるようだ。 「夫がお金の管理をしていることとも関係あるのかな。なんとなく収入があるっていうことがわかるくらいで、全体が把握できないんです。本当は『通帳見せて』って言いたいけど、『君のも見せて』って言われたら困るから言えない。謎の入金があるから」  通帳の履歴から、風俗やパパ活で稼いでいたことがバレてしまうことを、日葵さんは恐れていた。 風俗の仕事で自己肯定感が上がる  一方で、こんなことも言う。 「風俗の仕事は結構楽しいんです。なんか自己肯定感が上がるんですよ。だから、またすぐやりたくなるかもしれない」  性欲を向けてこない男性に愛情を感じながら、風俗で働くことで自己肯定感が上がる。  一体どういうことなのだろう。  「なんだろう。お客さんが予約してくれたり、リピートが増えていったりすると達成感があるんですよ」  日葵さんは、男性受けする容姿に加え、コミュニケーション能力が高いことも影響しているのだろう。聞けば、そうとうな売れっ子だったらしい。 予約が埋まるうれしさ「麻薬みたい」 「出勤日の1週間前から予約開始なんですけど、深夜0時になった瞬間に予約がバーッと入って、30秒で全枠が埋まったりするんですよ。それがうれしくて、麻薬みたいでした」  日葵さんは、プライベートでも男性にモテてきたタイプに見える。そうしたことは自信につながらないのだろうか。 「モテることイコール、自己肯定感とはならないですね。風俗だと、好意を向けてもらうことも仕事のひとつだから、成果になるという意味で気持ちが違います」  それは、他の仕事では得られないものだという。 「福祉の仕事の成果は、数字で見えない。風俗は、自分の成果がわかりやすく数字で表れるから、そこに中毒性があるんです」 夫との関係と達成感は別  それほどやりがいのある風俗をやめたのは、夫との関係を壊したくない気持ちがあったからだ。 「夫には申し訳ないと思う。でも、中毒性とお金の不安、いろんな要素が重なると気持ちが傾く。夫との関係は良好だけど、数字による達成感はまた別なんですね。今は風俗をやめて扶養内で昼職をやっているんですけど、本当はもっとバリキャリみたいに働きたい。けど働けないもどかしさやコンプレックスを、数字による達成感が癒やしてくれる面があるのかも。やめようやめようとは思っているけど、こういう話をしていると、また働きたくなっちゃう」  日葵さんは、困ったように笑った。  女性の貧困や性的搾取の構造など、風俗を取り巻く問題はさまざまに語られるが、働く女性の心情は複雑に絡み合っているのだということを改めて感じた。  (ノンフィクション作家・インベカヲリ☆)
すでに組んだ住宅ローンの金利は交渉で下がる!? 元メガバンク支店長が教える「交渉の余地が十分にある人」とは
すでに組んだ住宅ローンの金利は交渉で下がる!? 元メガバンク支店長が教える「交渉の余地が十分にある人」とは お金の専門家・菅井敏之さん(本人提供)   物価高が続き、給料も上がらず、なんとなく生活が苦しい時代。長生きリスクが心配でこの先、お金に困らない生活を送るには……。お金に関する「教えて!」を解決する短期連載。第3回のテーマは「銀行とどう付き合えばいいのか」。元メガバンク支店長でお金の専門家・菅井敏之さんに、バブル時代に青春を謳歌した筆者、バブ子(バブル女子)が聞きます。教えて、菅井さん! ――前回、銀行との正しい付き合い方でお金を借りられるという話を聞いて、さっそく地元の金融機関に口座をつくりました。人生後半戦、家を売ったり買ったりするということが、必ずあると思うので、少し安心した気分です。 「この物件ステキ!」 菅井:それは良かったですね。銀行は「返済率35%(収入の35%)」まで貸してくれます。でも私は自分で返すことができる金額は年収の20%くらいまでと考えています。年収が600万円の人であれば、120万円ぐらいまで。ローンの支払い額を低く抑えるために最初に年収の20%の借り入れと決めておけば、購入できる物件の価格が自動的に決まりますよね。年収500万円なら住宅ローンの支払いは年間100万円。毎月でいえば8万3000円。仮に住宅ローン(35年)の金利 が1%だとすると、だいたい3000万円の物件になります。これに預貯金で頭金を用意できる人はその額をプラスした物件が購入できるというワケです。このように金額を定めてから物件を探せばいいのですが、多くの人が物件を先に見て「この物件ステキ! 予算以上だけど買うわ」となってしまいます。これが悲劇の始まりです。 ――わかりますが、ハマります(笑)。 菅井:「お金を借りることができる」と「お金を返すことができる」はまったく違います。借りられる額を聞いて、自分がその額を返せると思うのがキケン。身の丈以上の物件を購入し、ドツボにハマってしまいます。 ――わかります。わかります。ではどうすれば。 菅井:まず夫婦の収入を合算したローンを組むことは避ける。妻側が出産や育児で収入が減れば、返済が厳しくなりますから。そうなって返せなくなりカードローンを借りてその支払いもまた別のカードローンから借りる……という悪循環の果てに破綻した人をこれまでに私はたくさん見てきました。ボーナス払いも絶対にやめましょう。ローンは年収の20%に抑え、毎月均等に返済することです。もしローンの支払いを3カ月以上延滞してしまったらアウトです。せっかく購入した家だけでなく、預貯金まで差し押さえられてしまいます。そして債権回収会社は任意売却にかけますが、それでも成立しない場合は最終的に競売にかけられることがあります。夢にまで見た我が家が、あっという間に知らぬ誰かのものになり、手元に残ったのは残債のみ。これは悲惨です。 10年持っていくらで売れるか ――ローンの話はそれくらいにして……。損しない不動産の買い方を知りたいです。 菅井:「おすすめ5原則」があります。これは、「安全性・収益性・健全性・成長性・流動性」です。これらが高いものを選べば、失敗しにくいと言えると思います。安全性でいえば築年数が古すぎないというのもポイント。陥りやすいのが、利回りの高さだけを見ること。「10年持っていくらで売れるか」のトータルで見てください。パートナーとなる仲介会社や管理会社が健全であるかもポイント。将来性のあるエリアで需要のある間取りや立地であることも重要です。お勧めエリアはこっそりお教えします。 ――実は驚いたことがあります。すでに組んでいる住宅ローンの金利ですが、「もう少し下げてもらえませんか」と掛け合ってみると、意外とできるって本当ですか。 菅井:はい、本当です。現在の市場金利や、銀行の金利を調べて比較して、他行で低い金利の住宅ローンを見つけたら、それをもとに(交渉材料として)自分の銀行に交渉するのです。「借り換えを検討していますが、登記費用などがかかるので、レートを下げてもらえませんか」と。銀行員時代はローンの引き下げ交渉なんて日常茶飯事でしたよ。相手が信頼のおける顧客で、ローン返済履歴が良好であれば銀行側にとっては手放したくないわけですから、交渉の余地は十分にあります。それを機に銀行が条件を見直すきっかけにもなります。 ついで買いの誘惑 ――何でも任せきり&ほったらかしにしないで、自分で情報をとって、まめに行動するって大事なんですね……。 菅井:銀行に対する意識を変えて、もっと銀行を上手に使ってほしいと思っています。ところで、お金をどこでおろしていますか? ――コ、コンビニです……。楽ですもん。 菅井:確かにコンビニでの現金引き出しは非常に便利で良いと思いますが、私から見ればお金が必要になってコンビニでその都度下ろすというのはキケン。手数料がかかる人もいるでしょうし、ついで買いの誘惑もあります。お金はもっと計画性を持って下ろして使うのが理想です。 ――結局お金が貯まる人と貯まらない人の違いはそこにあるんですよね。計画性……。 菅井:1回目でもお話ししましたが、同じ45歳で年収1300万円の人が貯金ゼロなのに、年収500万円の人が預金2000万円という例。これ、本当にシンプルなんです。計画性の違い。お金をどう使い、どう回し、どう貯めていくかを考えて生きる人と、その場しのぎでお金を使っている人の違い。実はお金持ちになるって、すごく難しいことでもなくて、極めてシンプルな心掛けでなれるんです。次回はそのお金持ちの人のお金に対する捉え方と管理の仕方についてお話ししたいと思います。バブって生きるのも楽しそうですが、ほんの少しお金との向き合い方を変えるだけで、もっと違った楽しさも加わると思いますよ。 ――お金を増やすことや回すという感覚がわからなくて……。次回楽しみにしています! 次回の「教えて! 菅井さん」のテーマは、お金持ちの人がやっていることについて。「お金が貯まらない私は、貯まっている人と何が違うの?」です。 (構成/AERA dot.編集部・大崎百紀) 菅井敏之(すがい・としゆき)/1960年、山形県生まれ。学習院大学卒業後に、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。東京と横浜で支店長を務め、25年間銀行マン。48歳で早期退職。現在は10棟のアパート経営で年間7,000万円の不動産収入を得ている。また、人気講師として全国で講演やセミナーを行っている。現在は帝国ホテル内でお金に関する相談を受けている。著書に「お金が貯まるのはどっち!?」(アスコム)など。お金の専門家・菅井敏之公式サイト「お金が貯まるのは、どっち!?」(https://www.toshiyukisugai.jp/)  
水がめの底に開いた大きな穴 日本のガソリン・電気・ガスの補助対策と同じ構図 田内学
水がめの底に開いた大きな穴 日本のガソリン・電気・ガスの補助対策と同じ構図 田内学 AERA 2024年11月18日号より    物価高や円安、金利など、刻々と変わる私たちの経済環境。この連載では、お金に縛られすぎず、日々の暮らしの“味方”になれるような、経済の新たな“見方”を示します。 AERA 2024年11月18日号より。 *  *  *  永遠に水を汲み続ける罰というものが存在するそうだ。  ギリシャ神話に登場するダナイデスという娘たちは、水がめを満たすために水を汲み続けているのだが、底に大きな穴が開いているせいで、永遠に作業を終えられない。  この神話が、いまの日本の状況に思えてならない。  自民党の政権運営は混迷しそうだが、経済対策の大きな柱の一つはガソリンや電気代の物価高対策になりそうだ。  電気代が上がっても、政府がお金を払ってくれるなら、個人としては嬉しい。しかしながら、そのお金はダナイデスの水がめのように、海外に流れ続けることになる。  2年前、世界的にエネルギー価格が急上昇し、ガソリンや電気代の高騰が国民の生活を圧迫した。それ以来、激変緩和対策として、11兆円を超えるお金が投入されている。  痛みを抑えるには対症療法も必要だが、水がめの穴を小さくする対策も必要だ。それは長期的な財源の問題ではなく、エネルギーをどうやって確保するのかという問題だ。 たうち・まなぶ◆1978年生まれ。ゴールドマン・サックス証券を経て社会的金融教育家として講演や執筆活動を行う。著書に『きみのお金は誰のため』、高校の社会科教科書『公共』(共著)など    日本のエネルギー自給率は約13%と極端に低く、大部分を輸入に頼っている。財源が国債であれ税金であれ、投入されたお金は、エネルギーの購入を通して、最終的に海外へ流れる。水がめの底には大きな穴が開いているのだ。  エネルギーの購入には大量のドルの購入が必要になる。それは、円の価値を押し下げ、結果的に食料品や資源など他の輸入物価も上昇させる。補助金によって表面的にはガソリンや電気代の高騰は収まるが、問題を別の輸入品に移し替えているだけだ。  根本的な解決のためには、エネルギー政策から逃げることはできない。  現在、日本の電力構成は火力発電が70%以上を占め、化石燃料に大きく依存している。この依存度を下げるためには、当然、他の発電方法に切り替える必要がある。しかしながら、太陽光発電は、地方では自然破壊や景観悪化の懸念から反対意見が多く、東京都が新築住宅に太陽光発電設置義務をもうけることについても反対の声が大きい。また、風力発電も自然環境への影響から計画の中止が相次いでいる。原子力発電も、安全性への懸念から再稼働に反対する声が依然として根強い。  エネルギー需要そのものを抑えるという方法もある。実際に昭和のオイルショックのときはそうやって乗り越えてきた。一人ひとりが節電に努めることもさることながら、省エネ技術の研究やエネルギー効率の向上も急務だろう。  このままでは、CO2排出量を抑える温暖化対策や脱炭素化に逆行するという問題もある。  補助金投入という鎮痛剤を飲み続けると、根本的なエネルギー政策についての議論が後回しにされ、環境負荷を減らす努力も鈍化してしまう。  持続可能なエネルギー政策を打ち出すことが、円安やインフレといった問題の解決につながる。国会での議論が、表面的な価格抑制や財源だけの話で終わらないことを願う。  繰り返しになるが、財源を確保しても、そのお金がじゃぶじゃぶと海外に流れていることを忘れてはいけない。エネルギー問題の解決に必要なのは、財源ではなく、水がめの穴を小さくすることだ。目先の物価高対策だけではなく、未来へのビジョンを示してほしい。 ※AERA 2024年11月18日号  
なぜ金持ちは「家計簿」を重視しないのか 元メガバンク支店長が教える「収入ー支出」より「資産ー負債」の考え方
なぜ金持ちは「家計簿」を重視しないのか 元メガバンク支店長が教える「収入ー支出」より「資産ー負債」の考え方 お金の専門家・菅井敏之さん(本人提供)  人生も中盤にさしかかり、いつまで生きるかわからないし、いつまで稼げるかもわからない……。90まで生きるかもしれないし、100を超えるかもしれない。物価高が続き、給料も上がらず、なんとなく生活が苦しい時代。長生きリスクが心配でこの先、お金に困らない生活を送るには、どうしたらいいのか。お金に関する「教えて!」を解決する短期集中連載。第一回のテーマは「お金が減らない生き方、暮らし方」。  答えるのは、元メガバンク支店長でお金の専門家・菅井敏之さん。48歳でリタイアし、現在は10棟のアパート経営で年間7000万円の不動産収入があるそう。聞き手は、貯蓄が苦手で「入った金は使うもの」がポリシーのバブル時代に青春を謳歌した女子、バブ子です。教えて、菅井さん! 夫なし、職なし、お金なし(僅か) 菅井:ある女性、美子さん(仮名、40代)のケースからお話しします。彼女は、海外赴任の夫とともに、海外を渡り歩いてきました。現地では働かず、友人を自宅に招いてお茶を飲んだり、お稽古事をしたり。優雅な海外生活でした。高身長、高収入、高学歴の「3高」の夫を持つ、容姿端麗な方です。しかし、人生が一転します。夫から「別れてほしい」と離婚を切り出されてしまいます。財産分与で得た額は、なんと500万円。夫の資産は1000万円の現金のみでした(理由は最後まで明かされず)。50を前にして、夫なし、職なし、お金なし(僅か)の生活に。長年染みついた贅沢な生活からの脱却は厳しいものがあります。50、60となっていざお金が必要となったとき、先立つものが何もないのは非常に危険。美子さんのように離婚までいかないまでも、夫が定年退職して収入が減っているのに生活レベルを落とせない人はたくさんいます。その結果、お金が湯水のようになくなっていく。とくにバブル世代の女子はキケン。お金を「管理」できない人が多い印象です。 ――み、耳が痛い…。どうすればいいのでしょう。 菅井:あたり前ですが、まず基本はきちんと収入と支出の「管理」をして、収入の中で暮らすということが大切です。そのうえで重要なのは、お金の話は「資産」を含めて見るということです。 ――なんだか難しいです。収入から支出を引いて、残りを貯蓄という発想はダメですか? 菅井:それは家計簿的な発想です。それだと見ているのは収入と支出だけで、いくら足りないと嘆き、もっと節約しようとか考えます。私が考える資産の種類は3つ。定期預金の利息や株の配当金を生む「金融資産」、家賃などの収入を生む「収益不動産」、そして「ビジネス力」です。ビジネス力は、あなたのスキルをお金に変える力のこと。収入は結果に過ぎません。お金持ちは、収入のもとになる「資産」を重視して、お金を管理しています。資産=負債+純資産で考えます。  ――そういう視点だと、毎月の住宅ローンの支払いがあったとしても、それは苦しさだけでなく、一戸建てなりマンションなりの資産があるという安心感に繋がりますね。 菅井:その通り。所有している不動産を新たなお金を生む可能性がある資産として考える。日々の生活ではどうしても「収入ー支出」に目が向きがちですが、「資産ー負債」で見た場合、思っている以上に純資産が大きくなっている人は多いのです。   「金融資産」、「収益不動産」、そして「ビジネス力」 ――おぉ、そうなんですね。バブリー女子としては、いろんなところに住んで引っ越しを繰り返して、自由に身軽に生きたいです。しかしそれもお金がかかり、最後にお金が残らないということに気づいてきました。 菅井:おぉ、さすがバブル女子……って褒めていませんよ(笑)。若い時から不動産資産を持たず貯金もしなければそうなりますね。日本の個人資産のおよそ6割は不動産です。私は不動産を含めた資産活用を勧めています。 ――もうあと10年早く、菅井さんの話を聞いて心を正しておけばよかったとも思いますが、今からでも遅くないですよね。 菅井:今後の生活設計を親や子どもといった家族全体、つまり「連結」で考えると可能性は広がります。親との連結ベースで寝かせている資産はありませんか?親の残した家だったり別荘だったり……。働いていない資産を動かして輝かせるのです。親がもつ資産を「連結」して考えると、道は拓けます。企業が親会社・子会社といったグループ全体で考えて経営するのと一緒です。 ――リスクが怖くて、銀行口座に寝かしたままの僅かな貯金で不安を感じているのが、なんとなくもったいないようにも思えてきました。 菅井:漠然と将来が不安なのは、将来自分に必要なお金や、そのために今どのくらい足りないのかがわからないからです。私は48歳で銀行を退職するときまでにアパートを6棟買いました。その分借金がありますが、資産もあります。バランスシートで見ているので、あまり不安もありません。お金に困らない生活ができるかどうか。それはお金を運んでくれる仕組みづくりをできるかできないかだと思います。不動産投資が怖いという気持ちもわかります。失敗も怖いですし、不動産価格だけでなく、変動金利が不安な方も多いと思います。私は不動産投資だけが良いと言っているわけではなく、その人にあった資産の増やし方というのがあると思うので、それを自分のスキルや個性にあわせて見つけてほしいと思っています。ポイントは、それを自分の持ち金の中で完結させて考えるのではなく、「資産を増やしたければ、他人のお金を使う」という点。資産をつくるためのポイントはいかに「銀行の力」を利用できるか、にかかっています。  ――借金をして資産を増やす。親の資金をグループ化して連結で考える。まるで企業の代表になって、会社を大きくするような感覚ですね。そういう視点が大切なのですね。  菅井:そうです。  ――借金をしてお金を回すという感覚がなかなかもてないバブ子には目から鱗。でもクレジットカードはどんどん使ってしまいます。  菅井:借金には2つ種類があります。いい借金と悪い借金です。新しいお金を運んでこない借金は悪い借金です。クレジットやカードローンは計画性が大切です。これで破綻した人も少なくないんです。年収1200万円で、月の手取りは50万円以上あるという人が毎月60万円以上を普通に使ってしまって。こっちで100万円、あっちで50万円。全部あわせて500万円ぐらいの借金を重ねた挙げ句、毎月の返済が回らなくなってしまう。カードローンが破綻への「最初の一歩」となるケースが非常に多い。 「稼ぐ力」だけでなく「管理する力」  ――どうすればお金に対する意識を変えられるのでしょうか。とても難しいです。  菅井:行員時代、お金が貯まる人とそうではない人の差をたくさん見てきました。たとえば「大企業にお勤めで年収が1300万円の45歳、だけど貯金ゼロ」という人もいれば、「中小企業のメーカー社員で年収は500万円。同じ45歳だけど預金が2000万円」という人。この違いは何か。お金を貯めるには、「稼ぐ力」だけでなく「管理する力」の両方を備えないといけないということ。私の周りには年収1200万円超なのに、貯金ゼロ、なんていう人がいっぱいいますよ。特にマスコミ(笑)。もう一度言いますね。一番大変なのは、バブルの意識が抜けないご主人任せの50代半ばから後半くらいのバブル女子なんです。  ――ガーン。次回、またお願いします。  次回の「教えて! 菅井さん」のテーマは、お金の借り方について。「家を買うのも、不動産投資も不安。銀行とどう付き合えばいいのか」です。 (構成・AERA dot.編集部・大崎百紀) 菅井敏之(すがい・としゆき)/1960年、山形県生まれ。学習院大学卒業後に、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。東京と横浜で支店長を務め、25年間銀行マンとして働く。48歳で早期退職。現在は10棟のアパート経営で年間7000万円の不動産収入を得ている。また、人気講師として全国で講演やセミナーを行っている。現在は帝国ホテル内でお金に関するさまざまな相談も受けている。著書に『お金が貯まるのは、どっち!?』(アスコム)など。お金の専門家・菅井敏之公式サイト「お金が貯まるのは、どっち!?」(https://www.toshiyukisugai.jp/profile.html)

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