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特集special feature





「困った人々の心に明るさをともす」 中村医師が亡くなった同僚に誓った生き方
中村哲医師がアフガニスタンで銃撃され死亡した。活動は医療に限らず、井戸掘りでの水の確保、農業用水路の設計にまで及んだ。中村医師を突き動かしたものとは何だったのか。AERA 2019年12月16日号から。 ※【「不平等に対する復讐」 中村哲医師が人生をアフガニスタンに捧げた理由】よりつづく * * * 2000年、アフガニスタンは大旱魃(かんばつ)に見舞われた。1200万人が被害を受け、400万人が飢餓状態となった。当時、ペシャワール会はアフガンとパキスタンに5カ所の診療所を持ち、160人の職員(うち日本人は5人)がいた。年間18万人を診療していたとはいえ、国際医療NGOとしては中小規模、予算は1億円で、ギリギリだった。それでも中村医師は、医療よりも先に飲料水を確保するため、「井戸を掘る」という新たな活動方針を決めた。

「不平等に対する復讐」 中村哲医師が人生をアフガニスタンに捧げた理由
12月4日、ペシャワール会の中村哲医師(73)がアフガニスタンで何者かに銃撃を受け、死亡した。戦争、飢餓、旱魃……。アフガンの人々と共に歩み、取り巻く不平等に立ち向かい続けた。AERA 2019年12月16日号から。 * * * 中村哲医師が銃撃され、亡くなった。戦争と、飢餓と、終わらない暴力の連鎖。世界で最も危険な国の一つであるアフガニスタンで、だからこそ、そこに住む人たちを決して見捨てず、人生の大半をささげてきた。最後は本人が否定し続けてきた暴力によって、命を落とした。73歳だった。 20年ほど前、当時大学生だった私は中村医師が帰国中に開く講演会に参加していた。中村医師は高校の大先輩でもある。質疑応答の時間となり、私は手を挙げて質問した。 世界にも日本にも困っている人、苦しんでいる人はたくさんいます。なぜ、アフガニスタンなんでしょうか? 中村医師は講演会や記者への取材対応の際にいつもそうであるように、表情を変えず、淡々とした声色で答えた。 「たまたま、ですね」 そして、一拍おいてこう続けた。 「たまたまそこに行って、そこで困っている人を見た。あとは……まあ、義を見てせざるはなんとやらといいますか……」 会場からは笑いが起きた。中村医師がはぐらかしているように感じた人もいただろう。だが、それは半ば以上本心だった。 福岡で勤務医をしていた中村医師は、1978年、知人に誘われて山岳会のパキスタン遠征に医師として同行した。昆虫採集が趣味で「珍しい蝶(ちょう)がいる」という言葉に惹かれた。訪れた現地で運命を変える光景を目にする。 それは、貧しく十分な医療を受けられない人々の姿だった。持ってきた薬品は山岳隊のためにとっておかねばならなかった。結核で血を吐く青年、失明しかけの老婆、ハンセン病の村人……。日本から医師が来たと聞きつけ、すがる思いで治療を頼みにくる人たちを見捨てざるを得なかった。