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大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第25回 RUST NEVER SLEEPS / NEIL YOUNG & CRAZY HORSE
第25回 RUST NEVER SLEEPS / NEIL YOUNG & CRAZY HORSE 1970年代の半ば、ロックをめぐる状況は大きく変わろうとしていた。そのもっとも顕著な現象が、過度な商業化。60年代後半の激動の時代、ロックはカウンター・カルチャーを象徴する音楽であったはずなのに、いつのまにか、数百万枚もアルバムを売り上げるアーティストが珍しくなくなっていた。もちろん売れること自体は悪でも罪でもなんでもないが、自然な流れとして、売上が評価の尺度として定着してしまったのだ。大きな変化のもうひとつは、明らかにその反動といえる、パンクの台頭。自らも、「ハート・オブ・ゴールド」が図らずも全米1位を記録したことからさまざまな苦悩を味わい、徹底して自分らしく表現することにこだわってきたニール・ヤングは、そういった時代の変化を独自の視点で受け止めた。その最初の成果が、「消え去るよりは燃えつきたほうが」、「サビは眠らない」というフレーズをロック史に残すこととなる名盤『ラスト・ネヴァー・スリープス』だ。
第24回 THE LAST WALTZ / THE BAND and VARIOUS ARTISTS
第24回 THE LAST WALTZ / THE BAND and VARIOUS ARTISTS ロビー・ロバートソンの“You know this guy”という、ちょっと斜に構えた感じのイントロダクションを受けて、ミリタリー・ジャケットを着たニールが舞台下手からセンター・マイクに向かって歩いてくる。怪しい目つき。足もとも覚束ない。だがともかく、ハーモニカ・ホルダーを調整しながら「彼らと一緒にステージに立てるなんて、ほんとうに嬉しい」と例の口調で話したあと、彼は「ヘルプレス」のイントロを弾きはじめる。
第23回 LONG MAY YOU RUN / THE STILLS - YOUNG BAND
第23回 LONG MAY YOU RUN / THE STILLS - YOUNG BAND すでに書いたとおり、74年の夏、CSNYは大規模なリユニオン・ツアーを行ない、そのまま、『デジャ・ヴ』以来ということになる新作の完成を目指してスタジオにも入っている。しかし、このプロジェクトは暗礁に乗り上げてしまう。周囲からの期待に応えられなかったわけだが、その後、クロスビーとナッシュはすぐにデュオとしての活動を再開。翌年秋『ウィンド・オン・ザ・ウォーター』という力の入った作品を発表したのだった。そして、これもまたすでに書いたとおり、直後に日本での公演を実現させている。
第22回 COMES A TIME / NEIL YOUNG
第22回 COMES A TIME / NEIL YOUNG 1978年発表の『カムズ・ア・タイム』は、ニール・ヤングの一連の作品のなかでもっともカントリー色の強いものといっていいだろう。記録によれば、その制作は、ソロ・アコースティック作品を想定して75年の秋にスタートしている。フランク“ポンチョ”サンペドロとの出会いをへて『ZUMA』を完成させた直後のことだ。強い手応えを感じていたはずなのに、「次も同じ方向で」とはならないところが、いかにもニールらしい。
第21回 AMERICAN STARS ‘N BARS / NEIL YOUNG
第21回 AMERICAN STARS ‘N BARS / NEIL YOUNG アルバム『ZUMA』のリリースからほぼ半年後ということになる1976年3月、ニール・ヤングは新生クレイジー・ホースとともに初来日をはたした(名古屋、大阪、福岡、東京で計7公演)。僕は3月10日の武道館公演を観ているのだが、ちなみにこの時期は、75年12月にクロスビー&ナッシュ、翌年1月にドゥービー・ブラザーズ、2月にイーグルスと、西海岸系大物の初来日がつづいた。ニールは、そのなんとも贅沢な流れの、いわば真打ちとして日本にやって来たわけである。
第20回 ZUMA / NEIL YOUNG
第20回 ZUMA / NEIL YOUNG 「ハート・オブ・ゴールド」が図らずも全米1位を記録してしまったことの結果としての状況変化。そして、ダニー・ホイットゥンの死。1972年から74年にかけてニール・ヤングは、苦悩を抱えながら、自分の進むべき道を模索していた。『タイム・フェイズ・アウェイ』から『トゥナイツ・ザ・ナイト』、『オン・ザ・ビーチ』にかけての3枚は、その苦悩やある種の怒りのようなものがダイレクトに反映された作品といえるだろう。
第19回 NEIL YOUNG / ON THE BEACH
第19回 NEIL YOUNG / ON THE BEACH 『トゥナイツ・ザ・ナイト』のレコーディングを終えると、ニールは、ふたたびサンタ・モニカ・フライヤーズとのツアーをスタートさせている。コンセプトもタイトルも同じで、残された記録によれば、連日、収録曲のほぼすべてを演奏したようだ。つまり、ほとんど誰も耳にしたことがなかった暗い歌の数々をたっぷりと歌いつづけたわけである。
第18回 NEIL YOUNG / TONIGHT’S THE NIGHT
第18回 NEIL YOUNG / TONIGHT’S THE NIGHT クレイジー・ホースの中心人物であり、ニールのギター・パートナーであり、親友でもあり、『エヴリバディ・ノウズ・ディス・イズ・ノーホエア』や『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』に大きく貢献したダニー・ホイットゥンは1972年11月に亡くなっている。彼が負った心の痛手は『タイム・フェイズ・アウェイ』にも影を落としていたが、そのアルバムを生んだツアーが終わると、また大きな事件が起きた。信頼するローディーのひとり、ブルース・ベリーが亡くなったのだ。どちらも、ヘロインのオーヴァードースが原因だった。
第16回 NEIL YOUNG / JOURNEY THROUGH THE PAST
第16回 NEIL YOUNG / JOURNEY THROUGH THE PAST 『ハーヴェスト』からシングルカットされた「ハート・オブ・ゴールド/孤独の旅路」が全米1位を記録したのは1972年3月18日のことだ。本人にしてみれば、まさに「図らずも」といった感じだったに違いない。普通のアーティストなら「やったね!」となるはずだが、ニールは状況や環境の劇的な変化を不快なものとして受け止め、以来、かなり強く意識して商業的成果や一般的な意味での名声と距離をおくようになる。そういった意識や姿勢を明確に打ち出したものとして最初に届けられたのが、2枚組の『ジャーニー・スルー・ザ・パスト/過去への旅路』だった。記録によれば、米での発売は72年11月。

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