

大友博
プロフィール
大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中
大友博の記事一覧



第43回 NEIL YOUNG CRAZY HORSE / YEAR OF THE HORSE
1997年夏発表の『イヤー・オブ・ザ・ホース』は、『アンプラグド』やアーカイヴ・シリーズ、CSNYの『4ウェイ・ストリート』を別にすると、ニール・ヤングにとって4枚目のライヴ・アルバムだ。正確な表記はないが、96年後半に行なわれたクレイジー・ホースとの欧州/北米ツアーから12曲がピックアップされている。 「復活」を強く印象づけた『WELD』とのインターバルはわずか6年。ふたたびクレイジー・ホースと2枚組ライヴ盤を制作する必然性があったのか、疑問の残るところだが、この背景には、『デッド・マン』で関係を深めたジム・ジャームッシュが取り組んでいた、ニールとホースをテーマにした同名のドキュメンタリー映画があった。また、彼らの創作活動に深く関わってきたデイヴィッド・ブリッグス(95年11月に他界)へのトリビュートという想いも込められていたはずだ。なお、映画とアルバムは、テーマとコンセプトはもちろん共通しているが、収録曲は大きく異なっている。アルバムはあくまでも独立したライヴ作品と受け止めたほうがいいだろう。 名盤『アフター・ザ・ゴルード・ラッシュ』から《ホエン・ユー・ダンス・アイ・キャン・リアリー・ラヴ》、『ラスト・ネヴァー・スリープス』から《セダン・デリヴァリー》、ツアーのタイトルでもあった『ブロークン・アロウ』から《スキャタード》など3曲、見過ごされがちな作品ながらブリッグスがとくに愛したアルバムだったという87年の『ライフ』から《ホエン・ユア・ロンリー・ハート・ブレイクス》など2曲、やはり彼が愛した『ZUMA』から《バーストゥール・ブルース》など2曲、といったところが収められている。いずれも、ブリッグスとの想い出と深くつながるものだろう。 指摘しておきたいのは、ニールが生ギターを弾きながら歌う《ミスター・ソウル》と《ヒューマン・ハイウェイ》でもクレイジー・ホースがきっちりとバックを務めていること。ソロ・コーナーにはしなかったということだ。またジャケット上の表記は、&でもwithでもなく、ニール・ヤング・クレイジー・ホース。さらには、プロデューサー名はホースとなっている。ジャームッシュから刺激を受けながら、ブリックスとの想い出をテーマに、クレイジー・ホースとの関係を再確認/再構築した作品でもあったのだ。


第41回 NEIL YOUNG / DEAD MAN
自ら製作に取り組んだ作品は別にするとして、ニール・ヤングは過去に一度だけ、映画のサウンドトラックを全面的に手がけたことがある(1980年の『ホエア・ザ・バッファロー・ローム』と94年の『フィラデルフィア』は一部参加)。95年公開、ジム・ジャームッシュ監督の『デッド・マン』だ。翌年2月発表の同名アルバムは“from and inspired by”と明記されていて、厳密な意味でのサウンドトラック・アルバムではないのだが、そのカルト的な名画と、ジャームッシュとの信頼関係から生まれたものである。ジャケットには主演したジョニー・デップの写真が使われた。

第40回 NEIL YOUNG / MIRROR BALL
1995年1月12日、ニール・ヤングは、ニューヨークのウォルドフ・アストリア・ホテルで開催された第10回ロックンロール・ホール・オブ・フェイム授賞パーティーに出席している。「生死にかかわらず、25年以上にわたってロックの歴史に貢献してきた」ことが条件の、いわゆる「ロックの殿堂」に迎えられたのだ。CSNとバッファロー・スプリングフィールドを差し置いての、49歳での殿堂入りだった。この日ニールは、レッド・ツェッペリンと《ホエン・ザ・リヴィ・ブレイクス》を聞かせ(YouTubeで確認できるはず)、アフター・パーティではフィル・スペクターのピアノで何曲が歌ったといわれている。『スリープス・ウィズ・エンジェルス』の次のステップを模索していた彼は、彼らとスタジオに入ることもかなり真剣に考えたそうだ。ニルヴァーナの残党とスタジオ入りすることも検討していたらしい。 だが事態はそれとは異なる方向に進んでいく。ホール・オブ・フェイムのパーティーから数日後、ワシントンD.C.で行なわれたベネフィット・コンサートにクレイジー・ホースと参加した彼は、パール・ジャムのアンコールに一人で加わり、強い手応えを感じた(前日のリハも観ていたという)。そして、ほぼそのままという感じでシアトルに向かい、彼らの『Vs.』と『ヴァイタロジー』を手がけていたプロデューサー、ブレンダン・オブライエンとともに、わずか4日でアルバムを仕上げてしまったのだ。この間、クレイジー・ホースの面々とデイヴィッド・ブリッグスは蚊帳の外だった。 すでにパール・ジャムが巨大な存在になっていたため、所属レコード会社からはかなりの圧力があったようだ。結局、バンド名はクレジットしない、中心人物エディ・ヴェダーの曲は収めない(実際には2曲録音されていた)などの条件をなんとかクリア。同年6月にリリースされたのが、『ミラー・ボール』だった。このあとニールはヴェダー抜きのパール・ジャムとヨーロッパ・ツアーも行なっている。 『ミラー・ボール』はライヴに近い形で録音されたもの。リハーサルにもほとんど時間をかけていないはずだ。ニールは20歳前後下の彼らとの自然発生的なセッションを心から楽しんだようで、全編、エネルギーとスリルに満ちている。3本のギターが対等の立場で鳴り響き、ベースとドラムスが重くてしかもスピード感にあふれたビートを刻み、エディとニールのヴォーカルが気持ちよく絡む。ゴッドファーザー・オブ・グランジとも呼ばれたニールとって、これは、カート・コバーンの自殺という衝撃的な事件に精神的な意味で決着をつけるためにも、必要なプロジェクトだったのかもしれない。[次回12/16(月)更新予定]



第37回 VARIOUS ARTISTS / BOB DYLAN 30TH ANNIVERSARY CONCERT CELEBRATION
1992年の10月16日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・ディランのレコード・デビュー30周年を祝う大規模な記念コンサートが行われている。ザ・バンド、ザ・バーズ、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトン、トム・ペティ、ジョン・メレンキャンプ、スティーヴィー・ワンダーなど直接的に彼の創作活動に関わってきた人も含むベテランたちから、トレイシー・チャップマンやエディ・ヴェダーといった若い世代まで、30組前後のアーティストが顔を揃えた、文字どおりのセレブレイションだった。ブッカーT&ザ・MGsにジム・ケルトナーとG.E.スミスが加わった豪華なハウス・バンドをバックに彼らがつぎつぎとディランの名曲を歌っていくという内容のこのコンサートは作品化され、翌93年夏にCD2枚組のライヴ盤としてリリースされている。

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