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大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第5回 NEIL YOUNG / NEIL YOUNG
第5回 NEIL YOUNG / NEIL YOUNG バッファロー・スプリングフィールドが解散するとすぐ、ニール・ヤングは初ソロ作品の制作に取りかかった。ずっと前から彼の心はバンドを離れていたのだが、ともかく、契約面での問題もクリアし、ここでようやく、正式な形で第一歩を踏み出したわけである。1968年夏。22歳のときだ。  このとき制作面で彼を支えたのは、デイヴィッド・ブリッグスと、バッファロー時代の意欲作「エクスペクティング・トゥ・フライ」にも貢献していたジャック・ニッチェ。セッションには、ライ・クーダー、キャロル・ケイ、ジム・メッシーナ、メリー・クレイトンらが参加している。  ブリッグスは、トパンガ・キャニオンでの偶然の出会いをへて、ニールと親交を深めていったプロデューサー。それまではさほど大きな仕事をしていないはずだが、ニールのレコーディングに関しては、95年に亡くなるまで、そのほとんどに関わっている。ファッションや車の趣味、政治意識なども含めて、公私にわたり全幅の信頼を得ていたようだ。  バッファロー時代にニールが感じていた不満は、スティーヴン・スティルスとの確執を別にすれば、主に、自分の書いた曲を形にして発表する機会が限られてしまうということだったのだと思う。つまり、曲はいくらでもある。初ソロ作品は、そのフラストレーションを一気に解消する場でもあった。「エクスペクティング~」の流れを汲む「ジ・オールド・ラフィング・レディ」から、彼自身のテーマ・ソング的な作品となる「ザ・ローナー」、のちにデイヴィッド・ボウイも取り上げた「アイヴ・ビーン・ウェイティング・ファー・ユー」、9分以上にわたって生ギター一本だけで歌いきる「ザ・ラスト・トリップ・トゥ・タルサ」まで、明確な方向性を打ち出すのではなく、内に秘めていたもののすべてをさらけ出したという印象だ。  初ソロ作『ニール・ヤング』は、ニールの23回目の誕生日、68年11月12日にリリースされたものの、サウンド処理の面で問題があったため、翌年、修正版が制作された。この時点で、当初はポートレートだけだったジャケットに名前のロゴが加えられたのだが、09年再発の際、オリジナル・デザインに戻されている。[次回4/8(月)更新予定]
第4回 BUFFALO SPRINGFIELD / LAST TIME AROUND
第4回 BUFFALO SPRINGFIELD / LAST TIME AROUND 1968年を迎えると、バッファロー・スプリングフィールドをめぐる状況はさらに悪化する。ブルース・パーマーは、2度目の逮捕で、ついにカナダに強制送還されてしまった。ニールとスティーヴンとの距離はますます広がっていった。プロデュース能力にも長けたジム・メッシーナを新メンバーに迎えて態勢を建て直したものの、つづいて、彼とニール、リッチーがちょうどLAを訪れていたエリック・クラプトンとともにドラッグ所持で逮捕されるという大きな事件が起きてしまう。ニールは自著で否定しているが、このときスティーヴンが「逃げた」ことも引き金となり、バンドの解散が決まる。68年5月のライヴを最後に、パッファロー・スプリングフィールドはロックの世界から姿を消したのだった。  68年夏にリリースされた3作目『ラスト・タイム・アラウンド』は、文字どおりの最終アルバム。アトコとの契約を満了させるため、前年春ごろから解散決定直前までに録音された素材をまとめたもので、最終的な仕上げはメッシーナが担当した。こちらのほうが先だが、クリームの『グッバイ』と状況は似ている。曲によってミュージシャンの編成が異なっているし(バティ・マイルスやラスティ・ヤングも参加)、印象的なジャケット写真は、じつはモンタージュなのだそうだ。ニールが書いた作品でここに収められているのは、「オン・ザ・ウェイ・ホーム」と「アイ・アム・ア・チャイルド」の2曲のみ。「待つのが辛くて/イッツ・ソー・ハード・トゥ・ウェイト」はリッチーとの共作としてクレジットされてはいるが、少し手伝ったという程度だろう。  ニール・ヤング、22歳。カナダを出てから、2年と少し。彼の心はもう完全にバッファロー・スプリングフィールドから離れていた。『ラスト・タイム・アラウンド』が発売されるとすぐ、彼はニッチェやデイヴィッド・ブリッグスらとスタジオに入り、ソロ・アーティストとしてのファースト・アルバムの制作に着手したのだった。
第3回 BUFFALO SPRINGFIELD / BUFFALO SPRINGFIELD AGAIN
第3回 BUFFALO SPRINGFIELD / BUFFALO SPRINGFIELD AGAIN デビュー作『バッファロー・スプリングフィールド』がロック・ファンやメディアから好意的に受け止められ、つづいてスティルスの書いた「フォー・ホワット・イッツ・ワース」がヒットを記録したこともあり、ニールの生活は大きく変わる。21歳になったばかりで、しかも違法滞在だったにもかかわらず、家や車を手に入れ、トパンガ・キャニオンのコミュニティにも溶け込むことができた。そして、その新しい暮らしのなかで、たくさんの人と出会い、曲づくりに関してもさまざまなインスピレーションを得たようだ。  ライヴでの人気も高まり、とりわけ、ニールとスティーヴンがイーヴンな関係で向かいあうギター・コンビネーションは注目を集めた。東海岸にも進出している。もちろん、いいことばかりではなかった。ベースのブルース・パーマーはドラッグ所持で逮捕され、ライヴや録音に穴を開けた。主にスティルスとの対立が原因で、ニールもしばしば姿を消した。  そのようにして大きく状況が変化するなか、彼らは、67年の年明けから秋にかけて2作目の制作をつづけ、11月、『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』のタイトルで発表している。  リッチー・フューレイがソングライターとしての自分を主張するようになったこともあり、ニール作品は全10曲中、「ミスター・ソウル」、「エクスペクティング・トゥ・フライ」、「折れた矢/ブロークン・アロウ」の3曲のみ。やや物足りない感じだが、いずれも初期の代表曲であり、とりわけ、フィル・スペクター・サウンドの重要なスタッフだったジャック・ニッチェと組み、LAの一流セッションマンたちと仕上げた「エクスペクティング・」は素晴らしい。あの時代のロックを象徴する名曲のひとつといってもいいだろう。  ジャケットを裏返すと、そこには、彼らが影響や刺激を受けた人たちが手書き文字で紹介されている。シャドウズのギター奏者ハンク・マーヴィンからロバート・ジョンソン、ジミ・ヘンドリックス、翌年には一緒に逮捕されることになるエリック・クラプトンまで、約80人の名前をチェックし、彼らとの関係を想像するだけで、一日が終わってしまうはずだ。
第1回 THE ARCHIVES VOL.1 / DISC 0 / EARLY YEARS (1963 - 1965)
第1回 THE ARCHIVES VOL.1 / DISC 0 / EARLY YEARS (1963 - 1965) ニール・ヤングは、1945年11月、カナダ東部オンタリオ州で生まれた。つまり、「ロックンロールの誕生」はちょうど十代を迎えたばかりのころということになる。ニール少年もその熱に冒され、ギターを手にとった。ハイスクール時代に組んだ最初のまともなバンド、ザ・スクワイアーズで腕を磨き、さまざまな挑戦をつづけていった彼は、さらに大きな夢を実現させるため、66年の春、中古の霊柩車でカリフォルニアへと向かっていく。09年リリースTHE ARCHIVES VOL.1のディスク0には、その当時の貴重な音源がデモ・ヴァージョンを中心に収められている。  シャドウズやヴェンチャーズを目指していたと思われるスクワイアーズの曲は6曲。ローカル・ヒットを記録した「ザ・サルタン」は、もろにシャドウズだが、次第にニールがヴォーカルも担当するようになり、のちの名曲「ドント・クライ・ノー・ティアーズ」の原典といえる「アイ・ワンダー」という曲もすでにこの時点で残されていた。その記念碑的な曲も聴くことができる。  スクワイアーズには女性ファンもつき、そこそこの金を稼げるようになったが、ボブ・ディランから強い刺激を受けたニールはバンドを去る。マーティンを手に入れてフォーキーな方向性を打ち出し、シンガー・ソングライター=ニール・ヤングとしての第一歩を踏み出したのだ。互いにまだ無名の存在だったスティーヴン・スティルスやジョニ・ミッチェルに強烈な印象を残していたこの時期からは、代表曲のひとつ「シュガー・マウンテン」の最初のヴァージョン、「アイ・アム・ア・チャイルド」の原曲「ザ・レント・イズ・オールウェイズ・デュー」、のちにバッファロー・スプリングフィールドで正式録音される「クランシーは歌わない」などが収められている。  北の国で送った青年期に残された音源は、まさに原石と呼べるもの。荒削りで、もちろん稚拙な部分も少なくないが、66年以降に展開されていくことになる創作活動の方向性がすでにほぼ確立されていたことがわかるはずだ。
第2回 BUFFALO SPRINGFIELD / BUFFALO SPRINGFIELD
第2回 BUFFALO SPRINGFIELD / BUFFALO SPRINGFIELD 1966年の春、ニール・ヤングはベース奏者のブルース・パーマーと中古の霊柩車でカナダを出た。目指すは、カナダで出会い、意気投合していたスティーヴン・スティルスが暮らしているはずのロサンゼルス。完全な違法入国だったが、ともかく、なんとかLAにはたどり着けた。しかし、彼らはスティルスの住所も電話番号も知らなかった。無謀な話である。諦めてサンフランシスコに向かおうとしたその日、彼らは反対方向から走ってきたスティルスに声をかけられた。大渋滞が起こり、クラクションが鳴り響く。それは、バッファロー・スプリングフィールドの誕生を告げるファンファーレだった。  音楽業界関係者のあいだでスティルスがすでにある程度の評価を得ていたこともあり(モンキーズのオーディションにも参加し、運よく落ちていた)、ザ・バーズの前座を務めること、ウィスキー・ア・ゴーゴーでの定期出演、大手アトコとの契約などが決まっていく。そして、夏から秋にかけて録音が行なわれ、ニールが21回目の誕生日を迎えた直後、セルフ・タイトルの記念すべきファースト・アルバムがリリースされたのだった。  当然の成り行きとして、スティルスが全体をリードしているが、ニールは「クランシーは歌わない」、「フライング・オン・ザ・グラウンド・イズ・ロング」、「バーンド」、「アウト・オブ・マインド」の4曲を提供。ヴォーカル・パートはスティルス、リッチー・フューレイとほぼ対等に担当し、随所で個性的なギターと新鮮なハーモニーを聞かせている。まだまだ方向性は定まっていないが、二十代を迎えたばかりの若者が持てるもの、暖めてきたもののすべてを吐き出したという印象だ。ただし、サウンド・プロダクション、とりわけステレオ・ミックスに関して彼らはかなり不満を感じていたらしい。  翌年以降、シングル・ヒットしたスティルスの「フォー・ホワット・イッツ・ワース」を加えた再発ステレオ盤が定番となっていたが、現在は、あわせてオリジナルのモノ版も1枚のディスクに収めたものが入手できる。

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