「世間的には同じ沖縄出身で甲子園で活躍した左腕・島袋洋奨(元ソフトバンク)が有名だったが、プロ関係者の間では宮国の評価の方が高かった。長身(186cm)から投げ込む球には大きな可能性を感じさせた。腕の振りがしなやかで、体の柔軟性も感じた。真っ直ぐは150kmをマーク、変化球のキレも良かった。島袋と異なり、使い減りしていない肩も魅力的だった」(在京球団スカウト)

「興南高・島袋と糸満高・宮国」。沖縄を代表する2人の好投手は、当時から全国的に知られる存在だった。

 島袋は3年時、エースとして甲子園の春夏連覇の立役者となった。中央大を経て14年ドラフト5位でソフトバンク入団を果たした。

 高校時代の宮国の前には、全国でも結果を残した島袋の大きな壁が常に立ちはだかっていた。だが投手としての評価は「プロなら宮国」という声も聞かれたほど。実際、宮国は高卒でプロ入りし、島袋は「プロでは通用しない」と自ら判断して、大学進学を決断した。

「あまり口にはしなかったけど、宮国は島袋を意識していたはず。直接対戦して負けた後などは、やっぱりすごいな、って言って練習にもより力が入っている感じがした。島袋の調子が良い日は、バットにさえも当たらないような投球もあったくらい。でも同じチームで見ていてハマった日の宮国も凄かった。2人を見ていて、こういう投手がプロに行くんだとみんなで話していた。でも絶対に打って宮国を勝たせたい、という気持ちだった」(糸満高野球部OB)

 ライバル島袋は大卒でプロ入りするも、イップスや故障に悩まされ、19年限りでユニフォームを脱いだ。1軍登板2試合のみに終わった。対する宮国は島袋の現役引退から1年遅れの今季限りで戦力外を通告された。巨人での1軍通算成績は205試合の登板で、21勝21敗1セーブ19ホールド、防御率3.59。

 入団当初の期待値からすると物足らない感じはあるが、プロでの実績は島袋を大きくリードしている。また、成績以上に宮国が巨人、そして沖縄に果たした役割は大きい。

「プロで結果を残すのは並大抵のことではない。巨人という日本一の球団でここまでやったのは褒めてあげたい。それ以上に沖縄と巨人の架け橋の存在になってくれたことに感謝したい。宮国のプロ1年目に巨人の沖縄キャンプが始まって、本人もいろいろなところに駆り出された。それでも嫌な顔をせずに協力してくれた。全国の巨人ファンに沖縄を大きくアピールしてくれたと思う」(沖縄県関係者)

 観光業が盛んな沖縄は、収益の見込める野球、サッカーなど、スポーツのキャンプ招致にも力を入れている。今ではキャンプ地を沖縄移転する球団も増加した。

 そんな中、06年から大規模改修を行ったのが那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)。改修後の11年から巨人が春季第2次キャンプ地として同球場を使用し始めた。ちょうど宮国がプロ入りした年だった。

「宮国の巨人入団年と沖縄キャンプ開始の年が重なった。偶然とはいえ運命的なものを感じた。しかも翌年には 初登板初勝利まで挙げてくれた。相手は『伝統の一戦』阪神戦で沖縄も盛り上がった。12年からは巨人も3連覇を成し遂げた。たらればですが、巨人そして宮国が結果を出せなかったら、『沖縄キャンプはゲンが悪い』ともなりかねない。キャンプ誘致に関わった人たちはそこまで心配していた。宮国は沖縄にとっての救世主だった」(沖縄県関係者)

「今現在のチーム構想から外れたというだけで、野球選手として限界という判断ではない。投手として高い技量を持っており、まだ28歳という年齢からも伸びしろは残っている。総合的に判断して戦力外(=自由契約)で他球団が接触しやすい環境を作ったのもある。ノンビリした性格で誰からも可愛がられていた。野球が大好きで、練習も手抜きすることなく一生懸命やっていたのは、大袈裟でなく誰もが知っている。チャンスを掴んで、ほんの些細なきっかけで結果にもつながる。心から応援している」(巨人関係者)

 糸を弾くようなストレートと、落差の大きなフォーク。「ハマった」時の宮国が手のつけられない投手だったのは決して昔のことではない。しかしプロ入り10年が経ち、間もなくベテランの域に差しかかりつつある。時間には限りがある。ノンビリした性格も魅力だが、ここが踏ん張りどころ。『観光大使』『郷土大使』だけではなく、プロ野球選手として結果を残し、沖縄のみでなく全国の人々にその名を届ける力はまだ残っているはずだ。今後の奮起に期待したい。

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宮国が地元・沖縄で果たした役割 --}{!-- pagebreak[PM