新たな時代到来の予感…WEリーグ初代チェア岡島氏が語る、女子サッカー界の“理想形” (2/6) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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新たな時代到来の予感…WEリーグ初代チェア岡島氏が語る、女子サッカー界の“理想形”

西森彰dot.
WEリーグの初代チェアとなった岡島喜久子氏(写真提供・日本サッカー協会)

WEリーグの初代チェアとなった岡島喜久子氏(写真提供・日本サッカー協会)

女子サッカー米国代表モーガンのバービー人形(写真提供・日本サッカー協会)

女子サッカー米国代表モーガンのバービー人形(写真提供・日本サッカー協会)

「長くコーチをやっていただける方がいらっしゃらなかったので、東京都に指導者スクールがあるということを知りまして、『リーダースクール』、現在のD級指導者ライセンスの講習を受けに行きました。『誰もいないんだったら、自分がやる!』と。規定で18歳以上にしかライセンスが下りないので、本来は参加できないのですが、女性としては初めての受講ということで、特例で参加させてもらいました」

 結局、このスクールで知り合った折井孝男氏が、その後、FCジンナンで長く指導し、そして日本女子代表の監督にもなる。

 1977年、岡島チェアにとっても、日本の女子サッカー界にとっても、大きな転機となる大会が開かれた。台湾で開催された第2回AFC女子選手権(現在の女子アジアカップ)である。この大会に、日本からはFCジンナンが単独チームとして参加した。しかし、日本サッカー協会(以後JFA)は、このチームを「日本女子代表」としては認めず、チーム登録も行っていない。

「この大会以前にもALFC=アジア女子サッカー連盟から、JFAに何度か『日本にも大会に参加してほしい』というレターがきていました。当時は、(日中国交正常化の反作用として)日本と台湾も断交していたのですが、『単独で行くんだったら、行ってもいい』と『黙認』という形で送り出してくれたのです。この時の遠征費は自己負担です」

 他の国の女子サッカー事情を得るには、貴重な機会である。岡島チェアは、香港(中国への返還前で英領だった)やシンガポールの選手に、英語でいろいろと問いかけた。そして、日本の女子サッカーの現状と将来について考えを巡らせた。

「たくさん訊いてみたいことがありました。『練習はどういうところでやっているのか』『コーチはどんな人がやってくれているのか』『練習以外の時間はどういうことをしているのか』『学校に行っているのか、働いているのか』……。大会が開催されたのは、約2週間だったのですが、その間に、とても英語が喋れるようになりました。

 この大会には、私もハーフバックで出場しました。日本以外、どの国も代表チームを出してきていました。『日本がこのままではダメだ』『日本女子代表を作って、こういう大会に出なくてはダメだ』という思いが強くなりました」

 2年後の1979年に、日本女子サッカー連盟が設立された。後に日本女子代表監督になる鈴木良平事務局長の下で、岡島チェアも理事に選出。年度末の1980年3月に決勝戦が行われた第1回全日本女子サッカー選手権の運営などに力を尽くした。


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