「最初はバックオフィスの仕事、その後、ニューヨーク本店の研修に出してもらいまして、帰国してからは東京支店で審査部のアナリストとして働いていました。私は営業に行きたかったので、営業に行ける証券会社を選び、国際証券(三菱UFJモルガン・スタンレー証券)に転職しました。

 国際証券では、初めは債券、次に株式のトレーディングルームで働かせていただきました。アメリカ、ヨーロッパの投資信託のファンドマネージャーのみなさんを相手にした、セールストレーダーというお仕事です。

 外資系の顧問は取引が大きいので、多くの日本の証券会社が営業をしたいわけです。担当者に会うまで、通常、2カ月、3カ月はかかっていたのですが、女性の営業が珍しいということで、私は2、3日で会ってもらえたりしました。日本の証券会社の営業マンは、自分の会社が推している銘柄を推奨することが多いのですが、私は自分の考えを話していたので、受けが良かったのかも知れません。営業成績は伸びていきました」

 営業成績が伸びるということは、仕事が忙しくなってくるということ。サッカー選手との両立も難しくなってくる。アメリカへの転勤を機に、現役を引退。ボルチモアで家庭を築き、現在まで30年を超えるアメリカでの生活をスタートさせた。

「1996年のアトランタオリンピックでは、竹本一彦さんと宮内聡さんが日本からスカウティングチームとしていらっしゃいまして、そのお手伝いをしていました」

 その後は、出産などによる休職期間も挟みながら、アメリカでステップアップしていく。日本の女子サッカー界とは距離を置くことになったが、アメリカ女子代表の高いステータスと、彼女たちへの社会のリスペクトを実感した。

「アメリカ女子代表の試合では、日本の試合会場と、ひとつ大きな違いがあります。女性がたくさんいるので、歓声が『黄色い』んです。日本だと、試合会場は、男性のファンが中心で、どうしても歓声が低音ですよね。WEリーグでは、高音域の歓声を増やしていきたいと思います」

 アメリカ女子代表のユニフォームは、ヨーロッパの強豪男子チームにも負けない、売れ筋の商品なのだ。

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社会的に影響力を持つ米国の女子サッカー選手