──2人暮らしだったのですか。

杉田:介護を始めたちょうど同じ年に私が結婚し、母と夫と3人で一緒に住んでいました。母と娘、2人だけで、毎日ずうっと向き合っていたら、たぶん、2人ともそうとう精神的にきつかったと思うんです。

 でも、3人だとけんかにもならずに、なんか、こう、とても穏やかな雰囲気で暮らせたといいますか。夕食の時間には、今日も一日無事に過ごせたってことで、毎晩、3人で「おめでとうございます!」と言って、乾杯していました。

 もちろん、母がせき込んだり痰を出したり息苦しいときは背中を始終さすってあげたり、トイレに行く際は介添えしたり。母の動脈血の酸素量の数値にも注意を向けていなければならないし。手を貸したり、目配りしたりすることは、いろいろありました。

──食事作りも杉田さんが?

杉田:そうなんです。母用に朝、昼、夜の3食と夫用に朝、夜の2食。毎日5献立を考えて、料理して。だから、一日じゅうお皿を洗っているみたいな感じだったんですよ。

 母の場合、風邪やインフルエンザにかかると命取りになりかねないし、C型肝炎もあったので肝がんと、やはり肺がんの予防に努める必要もありました。栄養価の高い野菜などを選んで、免疫力アップにつながるような食事を作っていました。私自身が、介護で共倒れしないために、きちんと食べなくちゃ、っていう思いも強かったです。

──芸能活動はできましたか。

杉田:それまでの10分の1くらいまで減らしました。もともと俳優業は、演じて好評価を得れば次にまた役がもらえるけれど、そうでないと仕事がこない不安定な職業なんです。介護は持続的なものだから、自分にはまだやるべきことがあると思うと、逆に私は不安を覚えなくて。

 慢性の病気をもつ母の介護を通じ、それまで自分が知らなかった社会のことを勉強したいって気持ちにもなりました。

──在宅介護は何年続きましたか。

杉田:4年半くらいです。その間、日々の睡眠不足のせいか、私も何度か体調を崩して、病院にかかることもありました。

 母は、もうずっと息苦しい症状があったのですが、それでも体調がいいときは、読書を日課にしていました。ロシア文学が好きで、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とかを読んでいて。ものすごい集中力でした。

 それと、亡くなる半年ほど前まで、毎週日曜日の朝に、うちの地域のケーブルテレビで、私が子役時代に出ていたドラマ「パパと呼ばないで」や「雑居時代」をたまたま再放送していて、母といろんな思い出話をしながら見ることができたんですよ。私ね、このときほど、「芸能人になってよかった」って思ったことはなかったです。

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誰もが充実感を味わえる医療、介護であってほしい