さて、米国大統領たるもの、いかに上手に演説をするかというのが必須の資質である。外交や経済など様々な批判はあったが、先代のバラク・オバマ大統領の演説は英語学習の見本となるものだろう。ヒラリー・クリントン女史との論戦に勝ち抜いた当代も、いささか下品ではあるが話は上手である。ところが、ジョージ・ワシントンには演説原稿や演説記録がほとんど残っていない。

 なぜか。この謎はワシントンDCの博物館に行って氷解した。

 米国の1ドル札を思い出してほしい。中央にあるワシントンの肖像で妙に両頬が腫れている。実は、これは入れ歯のせいなのである。

 義歯自体は古代からあった最古の人工臓器だ、現在のように部分欠損した歯を補綴したり硫化ゴムで周辺組織を傷つけないようにしたりと工夫した義歯は、19世紀以降の産物である。ワシントン愛用(?)の義歯は上下顎の間に、人の歯を埋め込んだ銀や真鍮などの金属あるいは象牙やカバの牙からなる入れ歯を当てて、スプリングで止めるという構造だった。しかし、スプリングが強く、口を開けると飛び出してしまうので、普段は口を閉じているしかない。当然痛いので、周りを大量の綿で覆い、その結果、装用者は殆ど話ができなくなった。

 実際、ワシントンの大統領就任演説はわずか約130語。それも何を言っていたのか良くわからないものだった。今だったら、スマホでツイートできたであろうが、当時はこのように便利な品物はない。

 ワシントンは20代から歯が抜け始め、大統領就任の時には1本しか残っていなかったという。耐え難い歯の痛みという記述から、齲歯(うし)とも歯周病ともいわれている。当時世界最強の英国との戦争に加え、根っからの共和主義者であったのに、米国の初代国王を目指しているという陰口や、植民地政府内の権力闘争がもともと真面目だった彼を傷つけ、歯周病を悪化させたことは想像に難くない。農場主時代から大統領時代まで、全米あるいはヨーロッパから呼ばれた最高の歯科医が義歯を作っているが、いずれも大統領に「雄弁」を取り返すことはできなかった。

 日本でも、西洋とは独立して室町から江戸時代には義歯が発達したが、黄楊(つげ)などの木床義歯(木製の入れ歯)で、違和感ははるかに少なかったと思われる。鎖国中で日本の歯医者は米国に行きようもなかったが、国交のあったオランダ経由でも優れた義歯を輸出してワシントンの演説を聞いてみたかったものである。

◯早川 智(はやかわ・さとし)
1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など。

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早川智

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早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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