[連載]アサヒカメラの90年 第21回 (2/2) 〈アサヒカメラ〉|AERA dot. (アエラドット)

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[連載]アサヒカメラの90年 第21回

デジタルの可能性と銀塩の危機

鳥原学アサヒカメラ
2004年5月号。表紙の作品は澤田知子の「Costume」からYAOYA

2004年5月号。表紙の作品は澤田知子の「Costume」からYAOYA

2002年1月号 篠山紀信digi+KISHIN「ザ・デジタル」から

2002年1月号 篠山紀信digi+KISHIN「ザ・デジタル」から

2004年1月号 篠山紀信 digi+KISHIN「TokyoDigital Night」から

2004年1月号 篠山紀信 digi+KISHIN「TokyoDigital Night」から

2004年5月号「生きもの新世紀 宮崎学の自然報告」

2004年5月号「生きもの新世紀 宮崎学の自然報告」

2002年9月号 藤原新也「日々のかたすみに映ゆクレマチスなど」から

2002年9月号 藤原新也「日々のかたすみに映ゆクレマチスなど」から

2003年4月号「長島有里枝のデジタルピクニック」第1回デジタル一眼レフに初挑戦

2003年4月号「長島有里枝のデジタルピクニック」第1回デジタル一眼レフに初挑戦

2005年5月号 小林のりお「Digital Kitchen」から

2005年5月号 小林のりお「Digital Kitchen」から

御手洗冨士夫と立木義浩の対談「デジタルの挑戦は面白い」から

御手洗冨士夫と立木義浩の対談「デジタルの挑戦は面白い」から

赤瀬川原平「デジカメと首領様」から。ともに2004年1月号掲載

赤瀬川原平「デジカメと首領様」から。ともに2004年1月号掲載

2006年3月号「山田久美夫のデジタルウオッチング」

2006年3月号「山田久美夫のデジタルウオッチング」

2006年4月号 山田久美夫「銀塩絶対必要論」

2006年4月号 山田久美夫「銀塩絶対必要論」

赤瀬川原平の不安

 02年にはじめてキャノンEOS-1D、翌年にEOS-1Dsと、デジタル機種がカメラグランプリに続けて選出されたあたりから、デジタル化は一気に進んだ感がある。本誌は篠山が「銀塩の牙城」と呼んだように、これまで過去の名機や高度に趣味性の強い機種の特集を目玉にしてきたが、その路線も修正される必要があった。

 ならば、じっさいに写真家はデジタルと銀塩をどのように使い分けているのか。また、メーカーはどんな方針を持っているのか。04年1月号で総力特集と銘打った大特集「デジタル革命 写真家108人の証言」は、その点に突っ込んだ企画だった。

 まず前年10月に実施されたアンケートの結果、デジタルカメラとスキャナーの使用率はすでに71%に上っていた。使い分け方は「場所と被写体によって」が28%で、次に「仕事先の要請」(21%)、「作品は銀塩、仕事はデジカメ」が19%と続く。また80%がデジタルと銀塩は共存すると回答し、その理由として「車の両輪みたいなもの」(田中長徳)、「銀塩カメラでの創作は伝統芸術としての地位を確保する」(大西)などの意見が紹介された。

 カメラ業界のリーディングカンパニーであるキヤノンの社長・御手洗冨士夫と立木義浩との対談では、デジタル化の可能性が強調されている。御手洗はデジタル化によって、事業全体のなかでカメラの比率が1990年代半ばの8%から、いまや20%にまで復活してきたとし、今後も圧倒的にデジタルの裾野は広がるだろうと予測する。

 通信インフラの整備に応じ、写真を使った手軽なコミュニケーションは、さらに盛んになると考えられるからだ。画質においても、解像度や発色の面でも銀塩のクオリティーをもうすぐ超えるだろう。また御手洗は、銀塩カメラについても、今後も「当然大事にしていく」と言明している。

 この時点では、御手洗だけでなく、多くのメーカーが銀塩カメラの存続について発言していた。だが、それを額面どおりに受け止めない銀塩ファンは少なくなかった。

 その心情を的確に言い表したのが、特集の最後に置かれた赤瀬川原平のエッセー「デジカメと首領様」だろう。

 赤瀬川は、パソコンの端末的なデジタルカメラには、自立したモノとして引かれるところがないという。さらに自由に画像を改変できるというがそもそも「自由な表現」という甘い言葉を自分は信用しない。自分にとって「カメラの魅力とは思いがけないものが写ること」にあり、日常のなかで見慣れたものを見直させる「目にとっての教育機関」あるいは「自分の目のライバル」なのだ。そしてその「ライバルを失うとすれば、じつに寂しい」と、文を結んでいる。

相次ぐ撤退

 結論からいえば、デジタルに一元化していく流れは、もはや止めようがなかった。カメラ業界の地図は、すでに大きく変わり始めていたのだ。

 03年、リコーのフィルムカメラ事業からの撤退とコニカとミノルタの経営統合が発表されている。後者について本誌は「混迷の船出」と伝えている。10月からスタートする「コニカミノルタカメラ」ブランドの、製品ラインアップなどについて明確な方向性が示されなかったからだ。

 同社はその懸念を払拭(ふっしょく)するように、翌年秋にデジタル一眼レフ、コニカミノルタα-7 DIGITALを発売した。デジタル一眼とは「交換ボディー」だという発想から生まれた、初のボディー内手ブレ補正機能を組み込んだ本機は、05年のカメラグランプリにも選ばれるなど高く評価された。さらに同年7月には、撮像素子を供給していたソニーとの共同開発を発表。直後の8月には普及機のコニカミノルタα SweetDIGITALも発売して、今後に期待を持たせた。

 ところが06年1月、同社はαブランドをソニーに譲り、3月末をもって写真事業から完全撤退すると発表したのだ。事業として黒字化が見込めないという判断だが、写真産業誕生からの歴史を持つ企業の撤退は、ショックを与えずにはおかなかった。デジタル写真の動向をリポートしてきた山田久美夫は、同年3月号の連載「デジタルウオッチング」で悔しさをにじませこう書いている。

「フォト事業の派生・応用技術が培った事業が、同社の稼ぎ頭であり、その事業が育ったからといって、不採算のフォト関連事業からいきなり撤退するのはいかがなものか」「銀塩の牙城」である本誌にそれ以上のショックを与えたのは、ニコンが同じ1月に発表した銀塩カメラ事業の縮小だった。

 04年に発売された最上位機種F6と入門機のFM10を除いて一眼レフは生産を終了、交換レンズも製品を絞り、コンパクトカメラは完全に撤退するのである。

 興味深いのは、デジタルの専門家たる山田が、この事態を直観的に予測していたことだ。フォトキナでF6が発表されたとき、「ニコンがF6を出した瞬間に銀塩一眼レフの歴史は終わる」(同年11月号 座談会「メーカーの個性が写真を面白くする」)と発言している。工業製品はその完成度が最も高まったとき、ジャンルごと消えてきたというのが根拠である。

 その山田は、06年4月号の特集「これからのカメラを語る」で、「銀塩絶対必要論」を説いている。デジタルがようやく実用性を獲得し、これから次の「第2期」に入っていく。そこに待つ限界点を超えるには、写真の原点であるアナログプロセスから学ぶことが必要になる。そのためにも原点を簡単に手放してはいけないのだ、と。

 とはいえ市場の急激な縮小はそれを許さない。05年には京セラがカメラ事業から名門CONTAXブランドを撤退、タムロンがブロニカ中判カメラ事業の終了を決定、また富士写真フイルムも大規模な人員削減を行っている。

 こうした写真業界の大変動はさらに続き、もちろん本誌にも多大な影響を及ぼしていくのである。


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