ところが、5球目を引っかけて三塁ゴロ。併殺に仕留められた。「これがすべてなんですよ」と田中は振り返る。

「ここで捕らえられなかったんです。そこから松坂のギアが、ガッと上がったんですよ。球の質、速さ。打席を追うごとに違ってきたんです」

 2点を追いかけての7回。田中は、ふとスコアボードを見上げた。安打を示す「H」のすぐ下。京都成章の安打数を示す数字には「0」と記されていた。

 焦るな。そう何度も自分に言い聞かせた。しかし、甲子園のムードが偉業への期待感へと少しずつ変わっていくのが田中にも分かった。

「あれが、そうですね。地鳴りっていうんですか? ホントに“下”から来るんです」

 甲子園という大舞台にこだまし、渦巻く声援、歓声、そしてどよめき。それが夏の空気を揺るがせ、その振動が足元からも突き上げてくるのだという。

 それはきっと、体験した者しか分からないのだろう。

 4回の第2打席も三ゴロ。7回の第3打席は空振り2つで、カウント1ボール2ストライクと追い込まれた。続く4球目のスライダーを、田中が打ちに出た。

「あれっ?」

 自分の左肩の付近から、ボールが曲がってくるのが見えていた。田中は真ん中から外角寄りに目を付け、バットを出していった。ところが、松坂のスライダーは田中のバットをよけていくかのように外の方へ離れていくのだ。

「真っすぐの感覚で来たと思ったら、ギュッって来たんですね。外から外なんです。でも僕の感覚では、内から外。背中の方から来て、どんどん遠ざかって行ったんです」

 選球眼には自信があった。ところが、結果的にそのスライダーは、捕手の小山良男も捕れなかったほどの“くそボール”だった。田中は振り逃げで出塁した。走者が出たのは1回以来のことだったが、ホッとした気持ちは全くなかった。それどころか、そのスライダーの凄まじさに田中はひたすら驚かされていた。

 8回、横浜が松坂のヒットを皮切りに3点目を奪った。9回、京都成章は9番から始まる攻撃も、内野ゴロ2つ、わずか5球で2アウト。そこから、直前の2番打者が四球で出塁。田中に4度目の打席が巡ってきた。

 ノーヒットノーランの大偉業まで、アウト1つ。やられるのか、それとも止められるのか。自分のバットに、そのすべてがかかっている。

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「人生で初めて、打席で足が震えました」