1998年、夏の甲子園。
それは、松坂大輔の「怪物伝説」が紡がれるためにあった舞台といっても過言ではない。
PL学園との準々決勝では延長17回、250球を一人で投げ抜いた。先発を回避したその翌日、明徳義塾との準決勝では、ベンチ前で右肘のテーピングを外した松坂が9回、リリーフのマウンドへ。そして横浜はラスト2イニングで6点差をひっくり返し、サヨナラ勝利。今もなお語り継がれる名勝負の連続だった。
そして、京都成章との決勝戦。まさしく「平成の怪物」と呼ばれた男にふさわしい、最高のエンディングを迎える。
決勝戦、ノーヒットノーラン。
大偉業達成の瞬間、松坂はバックスクリーンの方向へくるりと体を向け、両手でガッツポーズを取った。
その背中越しに、京都成章の「背番号3」が天を仰いでいた。勝者と敗者のコントラストがくっきりと浮かび上がったワンシーン。夏の終わり。負けた悔しさ。全力を尽くした充実感。最後の打者、田中勇吾の胸の内には様々な思いが交錯していた。同時に、そうした感傷をはるかに越える「驚き」も、田中の全身を貫いていた。
「えー、そこ? という感覚だったんです。後でみんなが『あんなん、振らへんやろ』って言ったんですけどね」
京都成章の「3番・一塁手」として、その夏、田中のバットは好調をキープしていた。準決勝まで5試合連続安打を放ち、23打数9安打、打率3割9分1厘をマーク。横浜との決勝戦を前に松坂の疲労度を考えると、田中は「10対0での対応はしなくていい」と考えていたという。
真っすぐか、スライダーか。どちらかに狙いを絞る。それが「10対0での対応」だ。しかし、疲労が蓄積している松坂に、絶好調時ほどの速度差はない。ならば「真っすぐを待っていても、スライダーをファウルできる」と踏んだ。
1回、四球の走者を置いての1死一塁。田中に打席が巡ってきた。いきなりボール3つ。
「全然、真っすぐが来てなかったんですよ。疲労でしょうね。始まったとき、これはいけるなと思ったんです」