歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将や歴史上の人物がどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した藤原道長の症例を紹介したい。
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【藤原道長(966~1027)】
太古の昔はいざ知らず、日本では天皇家にとって代わろうとする権力者はまずいない。従って、娘を嫁がせて次の天皇の外祖父になるというのが、平安貴族の王道だった。その代表が源氏物語の主人公・光源氏のモデルともなった御堂関白藤原道長である。
「この世をば、我が世とぞ思ふ望月の、かけたることのなしとおもへば」と藤原道長が権力の絶頂を謳った寛仁2年(1018年)、その体は既に病魔に蝕まれていた。藤原実資の日記『小右記』は、「近日、枯槁殊に甚だし。去年より陪す。又一昨胸病発動す。悩み苦しむの間弥々無力也」とあり、若い頃は堂々たる偉丈夫であった道長が急に痩せてきて、胸の痛みに苦しんだとしている。
その2年前には「摂政車にのり、御行に従ふ。悩気有るに依り、河原より退帰せらる。飲水数々、暫しも禁ずべからず」。「摂政仰せられて云ふ。去三月より頻りに漿水を飲む。就中近日昼夜多く飲む。口渇き力無し。但し食は例より減ぜず」。つまり道長は、51歳頃からしきりに水を飲み口が乾燥して無力状態になったが、食欲は衰えなかったというのである。
当時の医師は、道長の病を「消渇」としている。おそらく、典型的な2型の糖尿病だったのだろう。消渇については隋の医師・巣元方(580~650)が『諸病源候論』で口渇と多飲多尿といった糖尿病の典型的な症状を記載している。
藤原一門、特に道長の親族には消渇の患者が多く、伯父伊尹、父兼家、兄道隆その長子で甥にあたる伊周はいずれも「飲水の病」を患っていたという。道長と権力の座を争った伊周は、『栄華物語』に「帥殿は、日ごろ水がちに、御台などもいかなることにかとまできこしめせど、怪しうありし人にもあらず。細り給ひにけり」と記している。どうしたかと思われるほど食事を摂りながら、水を飲み痩せ細っていったというのである。ストレスは交感神経の緊張から高血糖の原因となるので、宮廷における権力闘争が寿命を縮めたのだろう。一見、花鳥風月を愛で、和歌を詠み、愛人のもとに通う優雅な平安貴族だが、弓矢や剣術、鷹狩りを好んだ戦国武将のように運動することもなく、また直接、敵と刃を交えないだけに、闘争は間接的かつ陰湿で徐々に貴族たちの肉体と精神を蝕んだ。
早川智
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