この頃の『小右記』に「大殿清談せられ次に目の見えざる由を言ふ。近づくも則ち汝の顔殊に見えず。申して云ふ、『晩景昼時と如何』と、仰せて云ふ、『昏時と白昼に関らず』。只殊に見えざるなり」とある。糖尿病の重要な合併症である網膜症あるいは白内障をきたしていたらしい。

■胸の痛みは

『御堂関白記』には寛仁2年(1018年)の4月9日の記載に「亥の刻許りより胸痛に悩み甚だ重し。丑刻頗る宜し」とある。『小右記』には「去夜、胸病重く発す。已に存ずべからず。今猶堪へ難きものあり。小時にして退出す。今夜大殿北方を引率して法性寺に参らせらると云々。お胸未だ平損せざるか」。翌日には「法性寺に参詣、左将軍即ち来たり太閤の命を伝へて云ふ。昨日午後、重く悩ませらる。よって俄かに思ひ立ち参らせらる。乗車の後御胸平復す」とある。道長は度々の胸痛発作に襲われていたのである。

 糖尿病は動脈硬化を介して狭心症や心筋梗塞の発症要因となる。さらに、動脈硬化がなくても、インスリン抵抗性が、冠状動脈の攣縮を起こし、血管内皮の機能を障害する。また、血管内皮の酸化ストレスを亢進し、慢性炎症から血小板凝集を来す。

 歴史的に、初めて狭心症を診断したのは17世紀イタリアのバロレッテイで、胸部の強い圧迫感と左腕の放散痛から死に至る病としている。18世紀末に種痘の発明で名高いジェンナーが、恩師ハンターの剖検を行い、冠状動脈の強い動脈硬化が急性心不全の原因であることを明らかにした。しかし、狭心症と心筋梗塞の違いが明らかになったのは実に1896年(明治29年)のことである。狭心症に対して亜硝酸アミルやニトログリセリンが臨床応用されるようになったのもその頃で、心筋梗塞に対するバイパス手術や心臓カテーテルは第二次世界大戦後の発明である。

 道長が亡くなったのは万寿4年(1027年)12月、子供や孫に囲まれ、自ら建立した法性寺阿弥陀堂で仏像の手と自分の手を五色の糸で結び、大勢の僧侶を集めて読経を受け、極楽浄土を夢見て旅立った。糖尿病の発症から11年経っているので、有効な治療法のなかった当時としては比較的長命したと言えるだろう。

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