しかし10年後、年頃になった璋子を関白・藤原忠実の長子・忠通に嫁がせようとするが、イエスマン忠実もこれだけは頑なに断る。璋子と養父である法皇との関係はすでに貴族社会のうわさとなっており、藤原氏嫡流のプライドが許さなかった。

 そこで法皇は、璋子を何と孫の鳥羽天皇(15歳)の中宮とする。しかし、璋子も年下の夫が物足らず、頻繁に“実家”である法皇の宮殿に里帰りする。そして元永2年(1119年)5月28日、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれた。この時、璋子19歳、法皇67歳。

 鳥羽天皇は、この、社会的には自分の子であるが、実際は祖父の子である長男を「叔父子」と呼んで忌み嫌った。のちに平清盛、源頼朝らと権力闘争を繰り広げた後白河天皇は、崇徳天皇と同じく璋子を母とするが、父は鳥羽上皇である。鳥羽上皇が54歳で崩御すると、もともと仲の悪かった崇徳上皇と後白河天皇は、各々を支持する公家や武家を集めて保元の乱を勃発させた。さらに平治の乱、源平合戦、そして鎌倉幕府による武家政権の樹立につながっていく。

■計画妊娠?

 歴史学者の角田文衞氏は、当時の記録から中宮が28日ごとに里帰りし、崇徳天皇を懐胎した時期に関係を持ったのは白河法皇以外にありえないと論証している。不倫文学の第一人者(?)渡辺淳一氏は『天上紅蓮』で、法皇と璋子が計画的に会って、いわゆるタイミング法で子をなしたとしている。

 月経周期や排卵のメカニズムを明らかにしたのは「オギノ式」で知られる20世紀の日本の医学者・荻野久作であるが、基礎体温はともかく、妊娠しやすい時期については当時でも経験的に知られていたのかもしれない。

 璋子は前述の、保元の乱の10年前に亡くなったが、わが子たちの骨肉の争いを見ないで済んだのは幸いだろう。残された肖像画から璋子が大変な美人で頭もよく、権力者・白河法皇が虜になったことは理解できる。したがって法皇が彼女を孫に押し付けたりせず堂々と恋を成就していればその後も貴族社会が続いていたかもしれない。もちろん民衆のことなど考えもしなかった貴族政治がよかったかどうかは別問題であるが……。

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