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 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した待賢門院璋子について紹介したい。

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【待賢門院璋子(1101~1145)】

 西洋では「恋愛」は12世紀に吟遊詩人が発明したものだという。日本では、額田王が袖を振った飛鳥時代から恋愛が存在した。江戸時代の国学者・本居宣長は、「儒教を生活の規範とする中国人は(実態はともかく)道徳論が好きで好色を咎める。一方、日本人は道徳よりも「もののあはれ」を重んじ、恋愛を文学の主要な題材とする」と言う。さらに「日本は神国で唐土は悪国云々」と続くがこれは省略。

 実際、『源氏物語』から近代の能、歌舞伎、文楽、浮世絵、黄表紙にいたるまで、日本文学のメインテーマは恋愛である。男女間の対等の関係(どちらかが愛を告げて、他方がこれを受け入れるか気に入らなければ拒絶できる)がなければ恋愛は成立しない。古代社会では家畜や財産の類いと考えられてきた女性が男性に隷属せず、自由意思で配偶者を選べることは画期的な出来事であろう。

■愛さえあれば年の差なんて

 平安時代、宮廷貴族たちにとって、恋愛が国家経綸よりも民草よりも重要な関心の対象となった。しかし、美しい奔放な女性と最高権力者の恋が内乱に発展したのは、待賢門院璋子と白河法皇の場合だけだと思う。

 平安末期にいわゆる院政を始めた第72代・白河天皇(貞仁親王)は、天喜元年(1053年)6月19日に尊仁親王の皇子として生まれた。『平家物語』では、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたと記しているが、逆に言えばそれ以外のすべてのことが思い通りだった。女性関係においても自由な立場だったが、五人の親王・内親王をもうけた中宮・賢子が若くして死去すると、その嘆きは一方ならず、有名な祇園女御(一説に平清盛の生母とされる)ほか数多の美女に囲まれながら、真に愛するべき女性は現れなかった。ところが法皇55歳にして、祇園女御が養女に迎えた藤原公実の末娘・璋子(7歳)をいたく気に入り、源氏物語に出てくる紫の上のように第一級の淑女として育てる。

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