●本当の会見地は駿府の地
この二人の会談は、多くの歴史書や小説の中にも登場し、脚色されているために人によってイメージが様々である。
例えば、江戸で一番の高台である愛宕神社の境内からふたりで江戸の町を眺めながら「この町を火の海にしたくはなかろう」と話し合ったとか、海舟が「江戸火消しを使って江戸を焼け野原にして立退くこともできる」とブラフをかけたなど。その多くがフィクションだとされているが、それもそのはず西郷隆盛と勝海舟が会談を行った時には、ほぼ話は決まっていたらしい。
この話を実際にまとめたのは、江戸へ向けて進軍していた新政府軍の参謀・西郷隆盛を駿府の地で訪ねた山岡鉄舟である。西郷が逗留していた松崎屋源兵衛の屋敷へたった一人で鉄舟は乗り込み、無血開城への道筋をつけたと言われている。現在の静岡市葵区にあたるこの地には「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑」が残されているのみだ。
山岡鉄舟は鹿島神宮の神官の娘を母に持つ──つまり戦国時代の伝説の剣士・塚原卜伝の子孫にあたる。また、千葉周作ほか江戸の剣豪たちに弟子入りし、のちの新選組へと変化していく浪士組の取締役を務めた人物である。徳川慶喜自らが鉄舟を選任したという。
●江戸での会見は体裁整え
西郷は鉄舟との交渉で納得したが、すでに江戸城内は開城派と抵抗派が分裂して収拾がつかない状態であったことに加え、3月15日には江戸城総攻撃のための他の軍も進軍していたことから、江戸に入ると池上本門寺に駐留、すぐに勝海舟を呼び寄せた。
この時、海舟が新政府軍と打ち合わせをしたと言われているのが寺内の松涛園である。今は一般公開されていないが、小堀遠州によって造園された日本庭園内には、両雄会見碑も立てられている。そして、総攻撃の直前となる3月13・14日に、薩摩藩邸にて最終的な西郷×勝会談が実施された。この三田の地には会談碑が建てられている。
●事実が歴史として残るとは限らない
のちに西郷は鉄舟を「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と評している。また、岩倉具視は「事実を記録に残すために」と鉄舟に江戸開城時のいきさつを報告書として提出させたという。明治時代となっても明治天皇の侍従などを務めてはいるが高い位にもついてはいない。だが、豪雨の中で行われた鉄舟の葬儀には5千人もの会葬があり、明治天皇すらも葬列を目送した。殉死者が出ることが案じられ保護された人の数も多く、高潔な人となりは自らの手柄を吹聴した海舟とは対照的である。
鉄舟のお墓は台東区の全生庵にある。夏になると「三遊亭圓朝」の遺品である幽霊画展が開かれることでよく知られているお寺ではあるが、江戸の町の最大の危機を救った男が眠る寺としては少し小さすぎる気がする。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ」が、国のために働く人さえいればというまさに今の時代、せめて大河ドラマくらいは山岡鉄舟を主人公として記録を残してくれてもよいと思うのだが。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)