人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「臈たけた」という言葉について考える。
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新型コロナウイルスの感染拡大による外出自粛要請で様々な店舗が閉店し、催しがなくなったが、一番困ったのが本屋である。三省堂や紀伊國屋といった大型書店が一時は休業し、軽井沢にたった一軒ある軽井沢書店までも営業時間を短縮した。運悪く、私の新刊も四月発売で真正面からその時期に当たってしまった。
新潮新書の『人間の品性』である。私が残念がっていると、担当編集者の女性が「本は腐るものではありませんから」と言う。そのおおらかさに救われた。
緊急事態宣言が解除され、すでにほとんどの書店は開いているが、こんな時こそ読書にふさわしく、特に古典や長編などふだん挑戦できないものがおすすめだ。
私の場合、かつての感性をとりもどすべく万葉集をはじめとする短歌や俳句など短詩型の本。そして大学時代専攻した現代詩。卒論は萩原朔太郎だったし、自分でも人知れず書いていた。
そんな中で出会ってずっと気になっていたのが「臈たけた」という言葉だった。
「紫の君は十八歳になり、匂やかに影ふかい、臈たけた若妻になった」(田辺聖子『新源氏物語』)など、文学作品にはよく登場した。
広辞苑によると「洗練されて上品である」と書かれている。しかし品がいいだけでは駄目なのだ。「匂やかに影ふかい」という表現、美しさに愁いがある。源氏の君にもっとも愛されながら、他の女たちとの情事を黙認せざるを得ない。心の底にある哀しみや影。それが読む者を魅了する。ものがたりを持つひとなのだ。
心に秘めた自分との葛藤。それが毅然とした姿勢と勁さを感じさせるのだ。
最近「臈たけた」という言葉を聞かなくなったのは、臈たけたひとがいなくなったからだ。
テレビや映画に登場する女優さんを見てもみなくっきりはっきりわかりやすい。聞かなくても中味までわかってしまうようで、もっと知りたいとは思わない。