職工の引き抜きも多かった。大久保は給料が少しでも高い工場を求めて蒲田、大井、池上界隈を渡り歩き、旋盤だけでなく、溶接もプレスもバフ(研磨)も何でもやった。昭和30年代初頭、日本の景気がようやく回復し始めた時期である。
当時の蒲田駅東口にはDという柄の悪い建設会社があり、一方、西口の繁華街には新宿から東声会という暴力団が流れ込んで、西口周辺をシマにしていた。大久保はもっぱら西口の繁華街を飲み歩いては、Dの社員や東声会の組員としょっちゅう喧嘩をしていた。
「当時は警察が暴力団狩りをしていて、一律に引っ張ってたから、東声会も人手不足だったんだろうね。兵隊がほしいところに、生きのいい兄ちゃんがいるってんで、うちに入んないかって声をかけられたんだけど、俺は昔からつるんで歩くのが嫌い。グループ活動が苦手なんだよ」
暴力団はたしかに“グループ活動”の一種に違いない。
「一匹オオカミなんて、大久保さんかっこいいじゃないですか」
「そんなこたぁねぇよ、ただのチンピラだもん。結局、ゴロマキ(喧嘩)が原因でネリカン(練馬区にある東京少年鑑別所の俗称)に入るんだからよ」
ある日、喧嘩相手を呑川に叩き込んで、土手に這い上がってきたところを鉄板を仕込んだ下駄でしこたま張り倒したら、それを見ていた堅気の人に通報されてしまった。
「チンピラ同士は絶対に通報なんてしなかった。だってよ、レクリエーションみたいなもんだったんだから」
ドヤの住人、一匹オオカミの大久保さんは、それからどうなったのか?
※後編「日本3大ドヤ街「寿町」で出会った“ともかくモテる”大久保さんの波乱万丈人生」へつづく
※スーパーマーケット友苑の店名はダモアに変わった。