「新興宗教ってのは、あれは中に居ると摩訶不思議なもんでね、妙な情熱で夜明けまで議論とかしちゃうと、女の子とすぐしんねこになっちまうんだ。まぁ、やり放題ってわけだよ。女房には惚れてたし、親父さんが入れ入れってうるさいから形だけ入ったけど、俺はああいうのが大嫌い」
すぐしんねこになってしまうが、しんねこになると煩わしい。大久保はそれを、身をもって体験していたのだ。
結局、新興宗教は長続きせず、それが原因で義父と反りが合わなくなり、ある日、一昼夜タクシーの仕事をして反町駅裏のアパートに帰ってみると、女房も家財道具も、一切合切が跡形もなく消えていた。
■四布半(よのはん)
最初の妻と暮らしたのはわずか2、3年のことで、27歳のときに2度目の結婚をした。相手は、間門営業所近くのガソリンスタンドで働いていた女性である。集団就職で小田原の大同毛織に入社して、横浜に流れてきた女だった。出身は福島県。実家は農家で、両親は福島で暮らしていた。
「向こうの親にすれば、横浜のタクシー運転手なんてのは聞こえが悪かったんだろうな。たまたま叔父さんって人が保土ヶ谷の峰岡町で布団屋をやっていて、今度、笹山団地の方に支店を出すってんで、峰岡町の本店を俺にやってくれないかっていう話になったわけだ」
大久保は西谷(横浜市保土ヶ谷区)の布団職人のもとに通い、半年余りで布団の作り方を覚えてしまった。注文を受けると、妻がミシンで布団皮を縫い大久保が綿を入れていく。このコンビネーションがうまくいって、布団屋はそこそこ繁盛した。他所に発注しなかったから中間マージンを抜かれることがなく、利が大きかったのだ。
大久保によると、布団の仕立て代(手間賃)は皮にする反物の幅で決まったそうである。「反物は桐生の銘仙なんかを使うんだけど、敷布団は反物を3三枚横につなぐから三布布団、掛布団は四枚つなぐから四布布団、婚礼布団は幅が広くて四布半って言ったな。幅が広くなると手間賃を多く取れるんで、婚礼布団は儲かった。まぁ、昭和の布団の話だな」