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東京の山谷、大阪の西成と並び称される「日本3大ドヤ街」の一つ「寿町」。伊勢佐木町の隣町で、寿町の向こう隣には、横浜中華街や横浜スタジアム、横浜元町がある。横浜の一等地だ。
その寿町を6年にわたって取材し、全貌を明らかにしたノンフィクション、『寿町のひとびと』。著者は『東京タクシードライバー』(新潮ドキュメント賞候補作)を描いた山田清機氏だ。寿町の住人、寿町で働く人、寿町の支援者らの人生を見つめた14話のうち、「第一話 ネリカン」から一部を抜粋・再構成して紹介する。
※「6年に及ぶ執念の取材!日本3大ドヤ街「寿町」の知られざる日常と大久保さんとの出会い」よりつづく
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寿町ではちょっと名の知れた扇荘新館の帳場さん(簡易宿泊所の管理人)、岡本相大の手引きで話が聞けることになったドヤ街の住人、大久保勝則。大久保は若い頃、派手な喧嘩をしてネリカンに入れられたという。ネリカンとは、練馬区にある東京少年鑑別所の俗称である。大久保はネリカンでいったいどんな生活を送ったのだろう。
「鑑別所ってのは読んで字のごとく、少年刑務所に入れるか保護観察で外に出すかを、一方的に観察しながら鑑別するところだよな。言ってみれば動物園の仮小屋みたいなもんで、特別、やらされることはないんだね」
ネリカンの部屋は六畳ほどの広さに4、5人が入る相部屋で、外の世界との最も大きな違いは、囲いもドアもない剥き出しの便器が部屋の片隅にあったことだという。
やらされるのはせいぜい鑑別所周辺の草むしりや窓拭きなどの軽作業ぐらい。特段、辛いことや苦しいことを強制されることはなかった。
幸いにして少年刑務所送りを免れ保護観察処分となった大久保は、身元の引き受けに来た父親と同じ飯場で一緒に働くことになった。父親は飲み代を捻出するために、寒川町の家を売り払ってしまっていた。
飯場は箱根駅伝で有名な権太坂に近い狩場町(横浜市保土ヶ谷区)にあり、狩場町の宅地造成が主な仕事だった。しかし、父親と一緒の大部屋暮らしは、大久保青年には耐え難かった。