入門前の広島時代は、後に初の東大出身棋士となる同年齢の片上大輔と「二強」と並び称されていた。周りに格好の練習相手がおらず、2人で何百局も指したという。

「だから片上君が東大に合格したと聞いたときも、自分もちょっと勉強したらそれぐらい合格できるんじゃないかと思ってました。中卒のくせに。大学受験浪人中の姉からはえらい怒られましたけれど」

 奨励会三段のときに、羽生善治が七つの将棋タイトルを独占する「七冠」という前代未聞の偉業を達成した(96年)。将棋界は大いに沸いたが、山崎はひどいショックを受けていたという。

「何か喪失感みたいなものがあったんですよ。だから七冠目のタイトル戦も『負けろ!』って、ずっと祈ってましたね」

山崎にとって羽生は憧れの棋士ではなく、倒すべき相手だった。師匠の雰囲気を反映してか、どちらかというと勝負に関してのんびりした森一門の中で、山崎の勝負根性は異質である。村山と山崎だけかもしれない。山崎は森が弟子を多く取ることに関して、こう語ったことがある。

「師匠は基本的に人に優しくて人が切れないんです。だから弟子が多い。でも、将棋というのはどこか刀で人を斬るようなところがありますからね」

 奨励会時代の山崎を知る人は、「とにかく突っ張っていて怖かった」と評する。兄弟子の増田裕司も、山崎に挨拶をしたのに無視されて激怒したことがある。

「今は歳を取ったぶん、丸くなったと思います」

 とげとげしい空気をまとっていたのは、退路を断って将棋に進むしかないと中学生で覚悟したからだった。

 弟子入りして広島から大阪に出てきた当初は、母親と一緒に暮らし、広島の実家には父親と姉が住んでいた。家族が離ればなれになり、母親も働いて山崎の修業を支えた。

「奨励会のたびに月2回新幹線で通うのも大変なので、中学1年生のときにこちらに転校してきたんです。母親は僕と一緒に住んで、こちらでの生活を支えるために、どこからか仕事を見つけてきて働いていました。師匠はそういう状況を見かねて、内弟子を勧めてくださいました。師匠もまだ独身で気楽なこともあったと思います」

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