榎森は荻上チキから「友達になりましょう」と声をかけられたという。「(榎森は)すごく話しやすくて、威圧感も全くなかった。榎森さんにも友人が必要そうだ!と思ったのもあります」(荻上)
榎森は荻上チキから「友達になりましょう」と声をかけられたという。「(榎森は)すごく話しやすくて、威圧感も全くなかった。榎森さんにも友人が必要そうだ!と思ったのもあります」(荻上)

 動画は、新聞や専門家などから知見を得て、エビデンスや多様な意見を紹介しながら、「俺はこう思うけれど、あなたはどう思うのか」を問うものが多い。評論家的ではなく、社会批判とブラックジョークを巧みに混ぜ込みながら、早口の関西弁でたたみかけるようにしゃべる。その語り口は、人を引き込む説得力と、不思議な緊張感がある。すでに100本近くの動画を配信してきた。そのうちの1割ほどは、自らが暮らす沖縄をテーマにした動画だ。

 声が裏返るほどのテンションの高いトークから、同様の人物像を想像していたが、それは表向きで、インタビューにはそっけないほどの態度で、常に内省的に自分の道程を淡々と話す。

「大学から沖縄に住んでいるのに20代のときは、沖縄戦や米軍基地のこと、沖縄が日本で構造的にマイノリティーの立場に立たされている問題なんかにはまったく関心がなかったんです。沖縄戦の組織的戦闘が終結した日で、沖縄の人が大事にしている『慰霊の日』すら知らなかった」

 沖縄国際大学を選んだのは、進学を考える時期に、母親が冗談で「沖縄でマンゴー農家でもやるか?」と言ってきたことだった。榎森は「沖縄いいかも」とピンときたという。大学では教員資格を取って、国語の教員になるつもりだった。高校時代のバスケをやっていた仲間とは将来、バスケ部の顧問になって試合やろうなと誓い合った。

 大学を卒業して、那覇市牧志の公設市場衣料部の2階でイベントスペースの運営に関わっていた時期がある。そこでは戦後、アメリカ占領下の時代の混乱を生き抜いた人たちが現役で働いていた。そこでたわいもない会話をしたり、しょっちゅうお菓子をもらったりして、沖縄の人の気質の温かさをリアルに感じた。

「当時の生活の過酷さについてもたくさん話してくれたんです。そんな戦後復興を経て今の沖縄があるということを知り、感謝とリスペクトの気持ちが宿った気がします。だからこそ、“沖縄終わった”という沖縄を切り捨てるような言葉や、沖縄を再び戦場にするような軍拡については強い抵抗を感じます」

 榎森がお笑い界に飛び込んだのは大学生のときだ。ともに国語の教員の資格を得るためのカリキュラムを履修していた1年先輩で、現在コンビを組んでいる金城晋也(36)が、大学生芸人として活動をしていた先輩のライブに誘ったことがきっかけだ。金城が2年、榎森が新入生のとき。金城は榎森との出会いを、「ふてぶてしい1年生がいるなというのが最初の印象」と笑う。

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