ギャンブル好きで知られる直木賞作家・黒川博行氏の連載『出たとこ勝負』。今回は、美大受験について。
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昭和二十四年生まれ、世にいう団塊の世代はとにかく人数が多かった。小学校は二部授業(午前中の組と午後からの組がひとつの教室を交替=こうたいで使う)、中学校は一学年が十五クラスもあったから、なにもかもが競争で、大学受験の倍率もめちゃくちゃに高かった。京都美大デザイン科は三十倍超、日本画と洋画は十五倍、彫刻、陶芸、染織、漆工が十倍くらいだった。
わたしが志望したデザイン科の定員は二十五人で、受験者は八百人近くいたから、狭い美大には入れず、どこか京都市内の予備校で一次の学科試験を受けたように思う。そこで三分の二ほどが落とされ、残る三分の一が東山七条の美大で実技試験にのぞんだのだが、それでも倍率はまだ十倍以上あった。試験会場の教室には五十人ずつが入ったと思うが、“ひやかし組”はおらず、みんな手慣れたようすで年季の入った絵皿や筆やカルトンを用意する。
わたしはあらためて部屋を見渡した。この中から、たった五人か──。あまりに倍率が高すぎる。その上、明らかにわたしより年上の浪人も多くいた(当時、合格者でいちばん多かったのが一浪、次が二浪、次が現役だった)。
こんなもん、宝くじやで──。学科試験のときはそうでもなかったが、なにか絵空事のような絶望的な気分になった。
“鉛筆デッサン”は白地の扇子だった。各人に一本ずつ配られて、これを描け、という。わたしは扇子をいっぱいに広げて描いた(京都美大のデッサンは円山・四条派から来た細密描写だから、徹底した写実性と質感を求められる)。
“色彩構成”のテーマは『結婚式』だったか。どんなものを描いたか、憶(おぼ)えていない。
“立体造形”は『児童公園の遊具を考案せよ』だったか。アイデアスケッチだったが、これも記憶にない。
合格発表はまるで自信なく見に行った。想定どおり、不合格。ま、そんなもんやろと思っていたから大して落胆もせず、一年浪人して普通の私大を受けるかと思っていたところへ、高校の美術教師が(母校の)京都美大へ行って、わたしの成績を聞いてきた。