駿府城公園内に立つ徳川家康像(c)朝日新聞社
駿府城公園内に立つ徳川家康像(c)朝日新聞社

 150年におよぶ戦乱の世に終止符を打ち、慶長8年(1603)、幕府を開いた徳川家康。そして、父・家康がつけた道筋を愚直なまでに継承した二代・秀忠。武断政治を進め幕府の支配をさらに強化した三代・家光。週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』では、「徳川300年の泰平」と謳われた時代の礎はいかにして築かれたのかを特集。ここでは「家康」を解き明かす!

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 家康といえば、江戸時代後期の勘定奉行・町奉行を務めた根岸鎮衛の『耳嚢』、平戸藩主松浦静山の『甲子夜話』などに記されている、「鳴くまで待とう」のホトトギスの句から「忍耐」の人というイメージを抱かれる方も多いのではないか。確かに家康は、幼い頃から苦労を重ねてきたといえるだろう。

 天文十一年(1542)十二月二十六日、家康は、岡崎城主松平広忠と、刈谷城主水野忠政の娘於大の間に生まれた。同十三年、母との別れが訪れる。当時の織田家と今川家は敵対関係にあり、松平家、水野家ともに今川方であったが、於大の父が死去し、兄信元が織田方に属したことから、松平家では於大を離縁したのである。その後、家康の父松平広忠は、田原城主戸田康光の娘を迎え、於大は、阿久比城主久松俊勝と再婚した。なお、家康が母と再会するのは、別離から16年後の永禄三年(1560)に、桶狭間の戦いの先鋒として出陣し、久松の館に立ち寄った際のこととなる。

 天文十六年、織田信秀(信長の父)の軍勢が岡崎城に迫る事態となり、今川家に頼った松平広忠は、6歳の家康を人質に差し出すことを求められた。しかし家康は、継母の父戸田康光の裏切りにより織田家へ送られてしまう。この時から、長きにわたる人質生活が始まった。

 その後家康は、今川義元が捕らえた安城う(安祥)城主織田信広(信長の庶兄)との人質交換で岡崎に戻るが、父広忠はすでに死去しており、義元の居城がある駿府に住むことになる。弘治元年(1555)に14歳で元服し、義元から「元」を拝領し、元信と名乗り、その2年後に今川氏一門関口義広の娘(築山殿)と結婚した。義元の期待がうかがえる。

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