サンペイさんは、柱時計を製造する会社の経営者一家のボンボンとして大阪で育った。

 大丸デパートの入社試験のとき、漫画の履歴書を提出したエピソードはよく知られているが、意外なことに漫画を描いたのはこれが初めてだという。

 名プロデューサーの小谷正一さんにその才を見いだされ、大丸宣伝部員として働きつつ、新聞に漫画を描く生活をして、27歳で独立した。このころの思い出話、人物交流談(小谷正一、司馬遼太郎、横山隆一・泰三兄弟、大宅壮一、メガネザルのジサマ<知恵袋の元新聞記者>、栄養学者の川島四郎ほか)を詳しく知りたい方は、ジェイ・キャストが制作した電子書籍『フジ三太郎とサトウサンペイ』に目をお通しいただきたい。26年半の間に描かれた漫画6300点、付録で不肖ワタクシめが聞き出し役を務めたインタビュー記事が収録されています。

 話を戻そう。「北緯60度の旅」から戻った当方、ほどなく別の雑誌のデスクに起用された。サンペイさんは、「ほら、オレの言った通りになったろう」と、喜んでくれた。背広姿で出社するたび、同僚に「今日はサンペイさんと会うの?」と冷やかされたことは内緒にしておいた。

「夕日くん」の連載が終わって何年か後、今度は「三太郎」もやめたいと口にし始めた。

「サラリーマンには定年がある。漫画家にもあって然(しか)るべきだ」と言うのだ。

「そんなに大変ならやめてもいいんじゃないですか」と、こちらは無責任にも言った覚えがある。

 そのころは老いた両親の介護にヒイヒイ言っていた身、サンペイさんから「災難に遭う時節には災難に遭うが宜しく候」という良寛の言葉を教えられ、急に肩が軽くなる体験をしている。金光教の熱心な信徒でもあったサンペイさんは、助言が巧みでもあった。

 その介護記録を週刊朝日に連載するとき、「三太郎」の仕事から解放されたサンペイさんに挿絵をお願いした。暗くなりがちな話が、ユーモラスな絵のおかげで明るくなったことに感謝した。

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