人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、韓国で起きた「雑踏事故」について。
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人はなぜ、多くの人が集まるところに集中するのか。韓国での痛ましい事故現場をテレビで見ていて思った。
「群衆雪崩」という言葉が使われていたが、多くの人ですでにぎっしりのところへ、さらに地下鉄から上ってくる人がいる。大通りから幅約三メートルの細い道に入ってくる人。しかも坂道になっている。
あの中に自分を置いたとして、とてもその渦から逃れられるとは思えない。渋谷のスクランブル交差点を見ていても、あれだけの人がいる中に身を置く勇気はとてもない。
それは私が自分の年齢を考えるからで、若い時は、そこに参加したいと思うのも無理からぬところ。今はハロウィーンだが、かつて私の若い頃は、クリスマス・イヴの盛り場は、宗教とは何の関係がなくともとんがり帽子をかぶり、クリスマスケーキを手にしたサラリーマンをはじめ、ハッピークリスマスと叫んだものだ。あれは何だったのだろう。どこへ行くという目的はなくとも群衆は流れる。人は人を呼ぶ。人の集まるところへ人は行きたくなる。
私のように子供の頃から群衆が苦手で、人の集まるところをさけている人間ですら、通りすがりに沢山の人が並んでいる場所があれば、何だろうと、その行列をのぞいてみたくなる。
今回の悲劇を見て、人間の性癖にまで疑問がふくらんだ。
私自身が群衆の中で恐れを感じたことがあるか思い出してみると、戦後の混乱の中では日常茶飯事だった気もする。
人々は食べることに必死で、買い出し列車や通勤通学列車もすいていたためしがなかった。
もっとも記憶にあるのは、大阪から母の故郷新潟へ、食物を求めて避難した時だ。長時間、超満員の列車に揺られていく。椅子と椅子の間も、通路も、立ちっ放しの人で動けない。幼い子は網棚の上。トイレはあるのだがそこまで辿りつけないし、降りるべき駅についても、窓から出入りするしか方法がない。