
その後、病院の外に出て夫に電話をしました。
「なんかね、私、妊娠してた」
「はぁ~??」
■3人目が来ると思うと
「もうだいぶ大きくて11週~12週くらいだって。産まないならすぐに決めなくちゃいけないんだけど、やっぱり無理だよね」
「なんで?」
「また早産してPVLになっちゃったら…」
「いいじゃん、PVLでも。ぴぴのためにも絶対もうひとりいた方がいい」
長女の面会時間中には、彼からこんなメールが来ました。
「3人目が来ると思うとますます仕事に力が入るよ」
この人はどうしていつもこんなにポジティブなのだろう。
彼の明るさに救われたことも多々ありましたが、この時だけは他人事のように聞こえ、腹立たく思いました。
私は病室で長女を抱きながら、何度も何度も考えました。
■医ケア児がふたりになったら?
この子(医療的ケア児)がふたりになったらどうする? 双子だけでも大変なのに、年子なんて無理でしょ。
けれども、もしも37週までおなかで元気に育つのなら、確かに次女のためになるような気もしました。なにより、「この子を殺してしまうの?」という問いに、答えられない自分がいました。
でも……。
面会時間が終わり、やはり無理だと伝えようと夫に電話をしたところ、すぐにつながりました。
「ちょっと待って? 今びっくりする人に代わるから」
「はろー!」
声の主はあーちゃんでした。
「えっ? なんで? さっきまで病棟で…? なんで?」
夫がたまたま通りかかったスーパーに入ると、偶然あーちゃんがいたそうです。ふたりで私の話をしていると、ちょうど私から電話が来たとのことでした。ここは自宅から離れたお店であり、帰宅した夫は「運命だよ」と言って笑っていました。
この日の出来事がなかったら、もしかすると私は、出産する勇気を持てなかったかもしれません。それほど、この偶然には大きな意味があるような気がしました。
産むと決めたものの、やはり妊娠経過は順調にはいきませんでした。
最も安定しているはずの妊娠6カ月にお腹が張って入院することになり、子宮収縮抑制剤(ウテメリン)の量を上げると双子の妊娠時と同じように肝機能障害が起き、29週に入った12月半ばに、子どもたちの主治医のター先生がいる病院に転院しました。肝機能障害のためにウテメリンの点滴ができなくなり、産科も新生児科ももういつ生まれてもおかしくないという見解でした。