FA宣言したのに、監督の説得に心を動かされ、残留を決めたのが、93年オフの巨人・槙原寛己だ。
“FA元年”となった同年、槙原はチーム最多の13勝を挙げたにもかかわらず、「トレード要員」の報道に不安を感じ、球団側に会談を申し込んだ。
だが、二度にわたる話し合いで、正式な慰留と呼べるものがなかったことから、「将来を考えて、高く評価してくれるところがあれば、年齢的にも売りごろだし」と11月10日、FA権を行使。地元の中日が名乗りを挙げ、限度額の1億2000万円プラス出来高に加え、名古屋での住居提供まで申し出た。このままいけば、“中日・槙原”が誕生していた可能性もあった。
これに「待った!」をかけ、誠心誠意アタックしたのが、長嶋監督だった。11月12日、秋季キャンプ中の宮崎から帰京すると、連日電話をかけ、まず夫人から説得した。
槙原の自著「プロ野球視聴率48.8%のベンチ裏」(ポプラ社)によれば、長嶋監督の熱意に心を動かされた夫人は「パパぁ、やっぱり巨人に残ったほうがいいと思うわ」と背中を押したという。
槙原自身も「100パーセント移籍」ではなかったので、「巨人が優勝するためには、お前の力が必要なんだ」「巨人に残ってほしい」という2つの言葉で胸のつかえが下り、夫人から受話器を受け取ると、「監督、僕は巨人に残ります」と告げた。
すると、長嶋監督は、すでに説得に成功しているのに、「これはケジメですよ」と2日後の11月21日、バラの花束を持って訪ねてきた。
「監督にこれだけ説得されなければ、こういうふうにはならなかったでしょう」と意気に感じた槙原は翌94年、完全試合を達成するなど12勝を挙げ、5年ぶりの日本一に貢献した。
本命ひと筋と思われたのに、ライバル球団に一度はグラつきかけ、最後は本命で決定という紆余曲折を経たのが、96年オフの西武・清原和博だ。
シーズン終了後の10月27日にFA宣言した清原は「すでに心は決まっています」と子供のころから憧れていた巨人への思いを口にした。