複数球団の争奪戦が繰り広げられることも多いFA選手。中には、当初有力とみられた球団から心変わりしたケースもある。
その一人が、1999年オフの広島・江藤智だ。93年に本塁打王、95年に本塁打王と打点王に輝いた赤ヘルの4番も、97年から3年連続で30本塁打に届かず、「よそへ行けば、甘えは許されない」と新天地での出直しを決意。11月7日にFA宣言した。
巨人、横浜、阪神、中日が獲得に動いたが、希望は「在京セ」とあって、実質巨人vs横浜の一騎討ちだった。
“本命”横浜は11月16日、「マシンガン打線をもっと強力にしてほしい。100三振してもいいから、100打点を挙げるような選手でいい」(権藤博監督)と熱く説得。江藤も「溶け込みやすい球団でもあるし、とにかくやりがいのある球団」と前向きに応じた。
一方、巨人も翌17日、広島で9年間背番号33を着けていた江藤に対し、長嶋茂雄監督の33番を譲るという破格の条件を示した。だが、江藤は「(巨人に)特別なものはない。冷静に考えたいと思います」と横浜に比べてクールな反応。この時点では、スポーツ各紙も「横浜有利」の論調だった。
ところが、11月25日、FA権を行使していた横浜の内野手・進藤達哉がオリックスと合意に至らず、一転残留が決まると、三塁でポジションが重なる江藤にも迷いが生じる。連絡が取れなくなった横浜側は同29日、「ウチに来てくれるパーセンテージは下がったようだ」(野口善男球団取締役)と弱気になった。
そして12月6日、江藤は「悩み苦しみましたが、ひとつの球団に絞れてホッとしています。最初の交渉の席で、(長嶋監督から)“荒波に向かっていきなさい”と言われたんです。どうせやるなら、大きいところへぶち当たっていこうと思いました」と巨人入りを発表。この結果、巨人は松井秀喜の前を打つ右の大砲獲得に成功するとともに、マシンガン打線の強力化も封じ、翌00年、6年ぶりの日本一を達成した。