芸術至上主義は、自然と人間に対する礼節を尽くすことではなく、ただ漠然と芸術にのみ礼節を尽くしておれば、事足りると考えているのではないだろうか。

 では、芸術とは何か?

 自身の作品のみを創作することではないのか?

 では、自分自身の作品とは何か?

 自身の自己満足に過ぎないのではないか?

 つまり自身に向ける礼節に他ならないのでは?

 それは、自己陶酔の極みではないのか?

 ところがヘッセや、デュシャンは自らの礼節が整うまで作品を創作することはなく、ひたすら自由の生活に没頭する。なぜなら、礼節は生活の中で磨かれるからだ。従って礼節のある生活こそが「成るように成る」芸術を生むのである。三島由紀夫が僕の耳にタコができるほど説いた礼節を強調した意味がここにある。

「芸術は無礼であってもいいが、生活においては、礼節が必要である。なぜなら礼節が創造と結びついた時、初めて作品が霊性を帯びる」と。つまり作為がなく、かつ、生活に即した生活から生まれる作品が可能となる。従って芸術を観念としてとらえる芸術至上主義とは真逆の生き方である。

「成るように成る」とは生活者としての生き方と、表現者としての生き方が、共に「成るように成る」作品を生みだすことになるのではないだろうか。

 では、僕の場合は? 生活のない生活であることに気づく。しかし、アトリエに籠もって絵を描き、絵を想うそのこと自体が今では僕の生活になってしまっている。だから、生活が絵そのものになり、絵が生活そのものになって両者が一対のものとして、そのまま生き方になってしまっているとしかいいようがない。ケッタイなことだ。

 だったら、やることはひとつ。「遊ぶ」しかない。絵を遊べばいいということになる。直感も閃きも関係ない。思ったことをやればいい。そんなことさえ考えることはない。描きたいものがなければ、ピカソみたいに目の前の窓を描けばいい。デュシャンは描くものがなければ、描く必要もないのでチェスをやればいい。描くものが失くなったら、失くなったことを描けばいい。頭から芸術のことを一切排除して、ただ、ウォーホルのように機械になって描けばいい。目的も大義名分も失くなった状態を描けばいい。何でもありをどこまで出し切るか、遊びの究極はそれ自体が目的だから、如何にデタラメを生きるかにつきる。そんなデタラメを自戒を込めて僕は妄想している。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2023年1月27日号

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