箱根初出場を決めた駿河台大の選手たち(埼玉県飯能市の同大キャンパスで)
箱根初出場を決めた駿河台大の選手たち(埼玉県飯能市の同大キャンパスで)
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 箱根駅伝出場校の起源、沿革を調べるとなかなかおもしろい。

【写真】箱根駅伝の「エース」といえばこの人

 今回、初出場の駿河台大は1987年に開学した。当時、その名称から予備校が作った大学と察した受験関係者は少なくなかった。駿台予備学校(駿台)である。自他ともに難関大学受験に強いことを認めており、予備校を運営する駿河台学園の学校史では、大学が開校した1987年についてこう記されている。

「駿台生、入試に輝かしい成果。東大合格者の五七%を占める」(『駿河台学園七十年史』1988年)。

 駿台の起源は1918(大正7)年開設の東京高等受験講習会にさかのぼる。その歴史は100年以上あり、現存する予備校のなかではもっとも古い。創設者は東京外国語学校(現・東京外国語大)出身で英語教師だった山崎寿春氏。ハーバード大、イェール大への留学経験がある。

 1930(昭和5)年に駿台高等予備校と名前を変え、戦争中は一時、予備校を閉鎖したが、1946年に授業を再開した。

 1980年に現在の駿台予備学校に改称する。

 駿台は東京大、京都大、早慶など難関大学に多くの合格者を出し、ライバルの河合塾、代々木ゼミナールよりも存在感を示していたが、駿河台学園の学園長で創設者の息子・山崎春之氏は、大学を作りたいという野望を持ち続けていた。

 山崎氏は駿河台大開学の直前にこう話している。

「大学創立は、そもそも駿河台学園の創設者である父の念願だったんですね。(略)ひとくちに大学をつくるといっても、資力その他の面で相当な準備をしなければなりません。昭和二七年にわたしが駿河台学園に入りまして、予備学校の体制がほぼ固まったのが四〇年ごろ。それから大学設立の具体的準備に入ったわけですから、二〇年かかって、やっと実現の運びになったという感慨も一方にあるんです」(「週刊朝日」1987年2月13日号)

 このとき、箱根駅伝のことは何も触れられておらず、法曹人養成、官僚養成に力を入れたい、と抱負を述べている。たが、残念ながら、2004年に開設した法科大学院は入学者数が伸び悩み、2012年をもって募集停止となった。

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