前述のように、家康が当主となったころの松平氏は弱小であり、今川氏に従属せざるを得ないほどの苦境に陥っていた。当然、門閥に限らず、有能な家臣を登用していかなければ、滅亡してしまうおそれもあったわけである。こうして、登用された家臣が、家康を支えていくことになった。もし、松平氏が、もとから三河の有力な大名であったとしたら、これほどの逸材は集まらなかったかもしれない。
こうした創業を支えた家臣団が、のちに「四天王」や「十六神将」と呼ばれるようになっていく。四天王とは、重臣筆頭である酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政を指し、十六神将とは、四天王に重臣12名を加えた部将を指している。なぜ、家康股肱の家臣団を四天王あるいは十六神将と呼ぶようになったのかについては、判然としない。しかし江戸時代になって、四天王に仏教の守護神である「十二神将」の数を足して十六神将となったのは、間違いなさそうである。そういう意味からすると、16という数字にはあまり意味がない。
四天王を除く十二神将に含まれるのは、今川氏に人質となっていた頃からの老臣である平岩親吉、三方ヶ原の戦いで活躍した内藤正成、長篠・設楽ヶ原の戦いで活躍した大久保忠世・忠佐兄弟、伊賀越えで家康を助けた服部正成(半蔵)、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる伏見城の戦いで討ち死にした鳥居元忠などである。ちなみに、十二神将に挙げられている部将の名前は、資料によっても異なる。部将の名前は、あくまでも江戸時代における時代意識を反映したものであり、十六神将に挙げられている部将だけが股肱の臣をさしているわけではない。
十六神将は、武功派の家臣が選ばれる傾向にあるが、家康を支えた吏僚派家臣の存在も忘れてはならない。たとえば、三河を統一したばかりの家康は、高力清長・本多重次・天野康景の3人に民政・訴訟を任せていた。この3人は「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と謡われたといい、優しい高力清長、厳しい本多重次、公平な天野康景という三者三様の性格で三河一国の統治を成し遂げていた。
また、三河時代からの家老であった石川数正や、参謀として家康を支えた本多正信などの重臣も、十六神将に選ばれていない。いずれも、家康のもとから出奔したり、子孫の代に失脚するなどしており、後世の評価が高くなかったからである。
※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から抜粋