※写真はイメージです(gettyimages)
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「犬のように忠節」と称賛された三河武士たち。主君家康は、全盛期の関白秀吉に「私は殿下のように名物茶器も名刀も持たないが、私のために命を賭けてくれる五百ほどの家臣が宝」と控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では、「重き荷を背負い続けて」ついに天下を掌中に収めた家康と家臣たちの道のりを徹底解説。今回は三河一国の統治を成し遂げるまでを追う。

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譜代と外様の家臣をいかにして
適材適所に活用したのか?

 三河を統一した家康は、もともとの本拠である西三河と、新たに併合した東三河を分けると、それぞれに旗頭として石川家成を岡崎城に、酒井忠次を吉田城におき、家臣団をまとめさせた。旗頭というのは、それぞれの地域に属す家臣を統率する重臣のことである。ちなみに、旗頭となった石川家成と酒井忠次は、あわせて「両家老」と称された。

 その後、今川領国であった遠江を併合した家康は、天正十年(1582)の武田氏滅亡後、駿河も領有することになった。そして、その翌年には本能寺の変の混乱後におきた天正壬午の乱を押さえて甲斐・信濃をも獲得する。このとき、家康は、武田遺臣を自らの家臣団に取り込んだ。武田遺臣のなかには、駿河出身の今川遺臣も多く、結果的に、旧主である今川氏の家臣をも従えることになったのである。武田氏は、灌漑水利や鉱山開発に力をいれていたため、家康は技術をもった武田遺臣を登用することができた。こうして、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃5カ国の大大名になったのである。

 天下人となった豊臣秀吉に臣従した家康は、天正十八年(1590)の小田原平定後、秀吉の命令で北条氏の遺領である関東に転封となった。このときも家康は、北条氏の遺臣を登用している。しかも三河譜代の重臣だけでなく、五カ国領有時代に取り立てた新参譜代と呼ばれる部将をも、城持部将として大名に取り立てたのである。こうした部将が、各地の要衝を押さえることになったが、なかでも、井伊直政・本多忠勝・榊原康政ら旗本先手役は、十万石以上の石高を与えられ、領国の最前線を守ることとなった。

 家康が有能な家臣団にめぐまれたのは、三河が人材の宝庫だったことにある。もっともそれは、他国と比べて三河に、有能な人材が集まっていたということを意味するものではない。有能な人材を召し抱えることができる環境にあったということである。

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松平氏がもとから三河で有力な大名ならば…