中には、「坂」「峠」「畷」「狭間」といった名前のついた戦いもあるが数は少なく、どちらかといえば、少ない軍勢が大軍を相手に奇襲攻撃をかけるといった場面が多いように思われる。大軍同士、正々堂々とぶつかりあうような戦いの場合、どうしても、「原」「河原・川」といった開けた広い場所が選ばれることになる。「原」の字がつく戦いで、最も有名であり、規模も大きかった関ケ原の戦いを例に、この点を確かめてみたい。

 周知の通り、関ケ原の戦いは美濃の関ケ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を戦場とした戦いで、慶長五年(1600)九月十五日、西軍石田三成率いる8万4000と、東軍徳川家康率いる7万4000の合わせて15万を超える大軍がぶつかった戦いである。

 石田三成は、はじめ、尾張で東軍の進撃を防ぐつもりでいたが、そこを突破されてしまった。そこで次に、美濃の大垣城に籠城し、そこを東軍に攻めさせ、その背後から毛利輝元の後詰を受ける作戦を考えていた。

 通説では、その作戦を見破った徳川家康が、「大垣城に籠城されては面倒なことになる」と、「大垣城を攻めず、佐和山城を抜き、大坂城に向かう」と、嘘の情報を流し、三成があわてて関ケ原で東軍の西進をくい止めようとしたとされてきた。

 ところが、近年の研究で、三成はおびきだされたのではなく、はじめから、関ケ原で東軍を迎え撃つ考えだったことが明らかになってきたのである。

 関ケ原はその名の通り、古代不破関があったところで、交通上の要衝で、中山道と北国脇往還が交差し、開けた広い空間があった。三成側が事前にこの場所を重視していた証拠というのが、西軍小西行長陣所近くの土塁の存在である。通説のように、九月十四日の深夜、嘘の情報で大垣城を飛びだしたのでは、土塁を築いている時間的な余裕はない。また、結果的に小早川秀秋が入り、東軍に寝返ったので西軍陣地としては機能しなかった松尾山であるが、三成は、そこを城として築き、毛利輝元を迎え入れるつもりでいたことも明らかになっている。 さらに、三成の盟友・大谷吉継が大垣城に入らず、関ケ原の西南にある藤川台に布陣したこともその証拠である。 三成は三成で、東軍の西進を関ケ原で阻止する陣形で臨んでいたが、それは叶わなかったのである。

週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から抜粋

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