藤井に見えている景色は、藤井の頭の中にだけ存在する。それがどれほどの絶景であったとしても、私たち観戦者はそれをのぞいては見られない。仮に見られたところで、その美しさを理解し感じることもできないのかもしれない。藤井が残す棋譜によって、いくらかその一端を感じるだけだ。
■升田幸三の理想主義
「森林限界の手前」という藤井のコメントを聞いて、オールドファンなら思い起こす升田幸三の故事がある。まだ「指し込み」の制度があった当時の王将戦で大山名人を圧倒し、1957年、当時のタイトル三冠をすべて制覇したときの揮毫(きごう)だ。
「私も、まだまだまだ将棋、わかっとらんですよ。だからぼくは、三タイトルとったり、名人を香落ちに指しこんだりして勝ったときに書いたのが、
──たどりきて未(いま)だ山麓
という言葉でしたよ」
(升田幸三『勝負』)
升田は大山に巻き返され、その天下は短かった。しかしいまなお升田が残した棋譜と、升田が掲げた理想主義的な精神は、将棋界に多大な影響を与え続けている。
2019年。タイトルを取る前の藤井(当時七段)はニコニコ生放送において、将棋の神様が100わかっているとすれば、自分はどれぐらいわかっているか、と尋ねられた。
「いやいや、全然わかんない。1以下です」
その思いは五冠となったいまも変わらないのだろう。(ライター・松本博文)
※AERA 2022年2月28日号より抜粋