自身に重責をかけすぎているのではないかと心配にもなるが、それがトップアスリートとしての宿命なのだろうか。
振り返れば、中西選手は06年の事故の際に右足の切断、インターハイ出場経験もあるソフトテニスから陸上競技に転向することを決断した。12年には100万円以上かかる競技用義足の費用や海外を拠点とした活動資金を調達するためにセミヌードカレンダー販売を決めるなど、以前からそのバイタリティーは際立っていた。
「セミヌードカレンダーを出した時はものすごいバッシングもされましたし、障がいを持っている中でプロとしてやりたいという時も『障がい者のくせに』ってすごくたたかれました。新しいことをやろうとするのは、時に“非常識”でもあるので、なかなか受け入れてもらえないし大変です。でも、それが“常識”となって救われる人がいるのであれば、苦労してでもやるのが自分の使命かなと思っています。最近は(義足の)プロとして頑張っている選手も増えていますし、義足の人のファッションショーも開催されるようになりました。同じような境遇の方たちが何か前進しようとする一歩になれればと思っています」
中西選手は24年のパリ大会も視野に入れて練習に励んでいる。彼女が理想とする競技人生のゴールを聞くと「パラリンピックでメダルを取ることが最低限の目標です。納得するまでやりたい」と熱く語る。
だがそんな中西選手も、12年のロンドンパラ後には一度引退している。復帰を決意した背景には、当時コーチだったロス五輪三段跳びの金メダリストのアル・ジョイナー氏からの言葉が大きかったという。
「13年に世界選手権があったんですけど『お前のいない世界選手権なんてちっとも面白くないな』って。その時はいいかげんに(陸上から)解放してほしいと思ったから、最後の電話だと思ってかけたら『1人で頼れる人もいない中、お前はアメリカまで来てトレーニングをやりたいって、よっぽど陸上が好きなんだろう?』って。そして『健常者に交じって陸上をすればいい。障がい者の中ではトップ選手? いやチャレンジしないのはひきょう者だ』と言われて目からうろこが落ちました。いつからか、自分が障がい者だということを盾にしていたんじゃないかって。そこから第2の陸上人生がスタートしたんです。健常者の大会にも出て、競技を楽しんでやるようになりました。自分が楽しめなかったら『応援してください』なんて言えないです。そして、楽しんでいる限りはまだ陸上人生のゴールではないと思っています」